前年末にスタン・ハンセンを引き抜き、日本中のプロレスファンをあっと驚かせた馬場の全日本プロレスにとって82年は勝負の年でした。
1月1日付で全日本プロレスの新社長に日本テレビの元運動部長だった松根光雄氏が就任。
松根氏は前年より日本テレビから役員として出向してきており、視聴率回復の為のテコ入れ人事でした。
日本テレビの全日本プロレス中継は全日本旗揚げと同時に72年10月から毎週土曜日午後8時から放送していました。
日本プロレス時代の金曜午後8時を後発のNETテレビ(テレビ朝日)に押さえられており、(日本テレビが先に放送を打ち切った)時間帯を変えての再スタートでした。
しかし、TBSの怪物番組「8時だヨ!全員集合」の前に子供の視聴者を取り込めず、75年からはフジテレビが萩本欽一の「欽ちゃんのドンとやって見よう!」の放送を開始。
また、野球シーズンは読売巨人軍の中継により放送時間帯を深夜11時45分に変更を余儀なくされるなど苦戦を強いられました。
外国人選手の質は最高であったものの、話題性で新日本のワールドプロレスリングに視聴率で後塵を拝し79年4月7日よりゴールデンタイムを外れ毎週土曜日午後5時30分からに格下げ。
プロレスはプロ野球、プロボクシングと並んで戦後日本に放送開始されたプロスポーツの草分けであり日本テレビの上層部では「プロレスは故・正力松太郎元オーナーの遺産」という考えの元、馬場を支援。
タイガー・ジェット・シン、ハンセンとの契約の際は原章ディレクターが帯同しており、引き抜きの為に資金協力をしています。
この年に44歳となり、衰えが目立って来た馬場に日本プロレス時代のような集客力はもはやなく、外国人が主役のマッチメークとなっていた全日本プロレスに外国人選手に対する源泉所得税の滞納の噂が流れたのが81年の夏でした。
新日本プロレスに比べ、外国人選手にかかるコストが遥かに大きかった当時の全日本はピンチに陥りました。
ライバル団体の新日本プロレスも76年6月26日のモハメド・アリvs猪木の試合で7億円とも9億円とも言われた大きな負債を背負い、NETから役員が出向しテコ入れを図り3年で返済しました。
このように当時はプロレス団体とテレビ局の結び付きは大変に強いものがありました。
松根社長は就任挨拶の際に「これからは鶴田、天龍を日本側のエースに据えて馬場君には一歩退いてもらってプロモーター業に注力してもらいたい」と馬場に事実上の引退勧告。
これを聞いた馬場は不快感を露骨に現しました。
また松根社長は海外中継のコーディネーターで高千穂明久(ザ・グレート・カブキ)の後に若手のコーチをしていた佐藤昭雄をマッチメーカーに選び、新しい感覚でのカード作りを要求。もはや馬場のプロレス観は時代に合わないとばかりに改革に走り始めています。
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