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2015年07月20日23:42

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猪木とビンス(303)

83年12月19日カナダ・バンクーバー・アグロドームでの大会には猪木の他新日本勢が出場。

藤波は11月3日、蔵前国技館で日本デビューを飾った謎のアストロノーツ、ザ・コブラとタッグを結成、ブレット・ハート、デービーボーイ・スミス組と対戦。

この試合で藤波はこれ以降海外の試合ではタマに見せた赤のショートタイツで登場、ブレットにサソリ固めを決めて好調ぶりをアピール。

藤波を除くジュニアの3選手は翌84年1月1日に開幕する新春黄金シリーズに揃って参戦しタイガーマスクが返上し空位となっているWWFジュニア・ヘビー級王座決定リーグ戦にエントリーされており互いに譲らない死闘を展開。

22分48秒両チームリングアウトの引き分けとなりました。

8月に次いで2度目のカナダ登場となった青春のエスペランサ、高田伸彦(延彦)はメキシコからカナダに渡ったヒロ・サイトー(斉藤弘幸)とシングルマッチ。

ちなみに高田のニックネームとなった青春のエスペランサは古舘伊知郎アナウンサーの命名であり、エスペランサはスペイン語で「希望」の意。

その出所になっているのは75年に初版が発売された猪木の自伝「燃えよ闘魂」の中に

ブラジルでの移民生活の中で猪木一家が自ら経営するコーヒー農園に「エスペランサ」と名付けたところから来たものです。

斉藤は78年8月デビュー、再デビューとなったジョージ高野、前田日明、平田淳二、原薗喜由紀(引退)らと同期。

身体が小さかった為なかなか目が出ず、81年にメキシコUWAへ海外修行。83年にカルガリーへ転戦、金髪に変身してヒールに転向していました。

試合は20分1本勝負で行われ時間切れ引き分け。当時から試合の巧さには定評のあったサイトーが高田をリードした試合でした。

また、サイトーの同期でやはりメキシコからカナダに転戦、ネイティブ・アメリカン・ギミックのサニー・ツー・リバースに変身した平田も出場、国際プロレスに何度も来日して日本ではお馴染みのキューバン・アサシン(後に新日本プロレスに来日する同名のレスラーとは別人)と対戦し16分48秒フライング・ボディプレスからの体固めで勝利。

タイガーマスクの退団のダメージは大きかった新日本でしたが、この日の大会を見る限り、つくづく人材の宝庫であると実感させられました。

さて、8月のMSG定期戦以来、再び情報がシャットアウトされた感のあるWWFですが、年末に来て突如、情報が解禁され、ビッグニュースが飛び込んで来ました。

12月26日、ニューヨーク・MSGの定期戦でWWFヘビー級王者ボブ・バックランドがアイアン・シークに敗れ、王座転落しました。

バックランドは2日前の12月24日、ペンシルバニア州アレンタウンでのテレビマッチでI・シークとノンタイトルで対戦。

I・シークのマネージャーであるフレッド・ブラッシーが金属製のトレーニング器具をバックランドに投げつけて、バックランドは肩を強打。

バックランドのマネージャーであるアーノルド・スコーランが救出に入ってブラッシーと殴り合いとなり試合はノーコンテストとなりましたがバックランドは左肩に大きな怪我を負いました。

そして迎えた本番のタイトル戦、I・シークはバックランドの肩に集中攻撃。そして、痛めた肩越しにキャメルクラッチ。

リング中央でガッチリ決められてしまいバックランドは動けず、セコンドにいたスコーランがタオル投入。

8分13秒、TKO勝ちでI・シークが勝利。ベルトが移動し新王者となりました。

78年2月20日、ニューヨークMSGでスーパースター・ビリー・グラハムを破って王者となって以来、日本で猪木に短期間王座を明け渡した以外はアメリカ本国での王座移動はなく5年10か月に及ぶ長期政権を築いたバックランド時代もついに終焉を迎えました。

そして、翌84年1月23日に予定されているMSG定期戦では、アメリカにおいてはAWA圏で試合をしていたハルク・ホーガンが挑戦者として名乗りを上げました。

いよいよビンス・マクマホンによる全米制圧のプロジェクトがベールを脱ごうとしていたのです。
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