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2015年07月13日22:15

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猪木とビンス(302)

第4回MSGタッグ・リーグ戦が終わると猪木はまずアメリカに渡り、12月18日、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外のブレセッド・サクラメント教会で行われたハルク・ホーガン(本名テリー・ボレア、当時30歳)と交際中だったリンダ・クラリッジさん(当時24歳)の結婚式に出席しています。

式には猪木の他、アンドレ・ザ・ジャイアント、ビンス・マクマホン(ジュニア)夫妻、アドリアン・アドニス夫妻、従兄弟のエド・レスリー(後のブルータス・ビーフケーキ)らが出席し二人の新しい門出を祝福しました。

後にホーガン夫妻は長女ブルック、長男ニックの子供に恵まれましたがニックの自動車事故をきっかけに人生が暗転し離婚の憂き目に遭ってしまったのは残念な限りでした。

翌日12月19日、カナダへ移動した猪木は現地で新日本の所属選手達と合流、バンクーバーのアグロドームで行われたスチュ・ハート派の興行に出場しました。

猪木の試合はメインイベント前のスペシャルマッチとして組まれ未来日のケリー・ブラウンとのシングルマッチ。

ブラウンは当時25歳の若手でカンサスを中心に活躍していたボブ・ブラウンの甥(実際はギミック)と言われていました。

試合はブラウンのラフファイトに怒りを爆発させた猪木が鉄柱にブラウンの額を打ち付けて大流血させてリング中央で卍固め。

これでギブアップと思いきや、メインイベントに出場するバッドニュース・アレンが乱入、背後から猪木を襲撃。

9分53秒、猪木の反則勝ちに終わりました。

アレンに襲われた猪木のピンチを救ったのは、現地ではベビーフェイスだったモンゴリアン・ストンパー(アーチ・ゴルディ)でした。

日本プロレスに2回、国際プロレスに2回、全日本プロレスに1回来日していたストンパーは猪木のアメリカ修行時代にカンサスで対戦経験があり、日本では71年2月4日、大田区体育館でシングルで一度だけ対戦。

60分3本勝負で対戦し1本目はストンパーがストンピングから体固め、2本目は猪木がコブラツイスト、3本目は暴走した猪木が反則負けという記録が残っています。

新日本とは接点がなかったストンパーでしたがこの時が唯一の新日本への来日のチャンスでした。しかし結局は呼ばれずじまいに終わっています。

44年生まれのストンパーはこの時39歳とベテランでしたがまだまだ元気であり日本でも猪木とストンパーの対戦あるいはタッグ結成は見たかったです。

猪木から見れば、国際でラッシャー木村のIWA世界ヘビー級王座に2回挑戦して負け、全日本の82年第10回チャンピオン・カーニバルで身体の硬さを露呈して阿修羅・原、プリンス・トンガ、グレート小鹿、佐藤昭雄らに丸め込みで負けて馬場に使い捨てにされたストンパーを新日本に上げる気はなかったかと思われます。

メインは猪木の試合の流れから、カナダで抗争中のストンパーとアレンがシングルで対戦、6分19秒ストンパーの反則勝ちとなっています。
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