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2015年06月17日23:12

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猪木とビンス(295)

83年闘魂シリーズ終了後の11月11日、港区南青山にあった新日本プロレス事務所では臨時株式総会が開かれました。

8月25日の同総会で代表取締役社長を解任された猪木が社長に復帰。同じく取締役副社長の座を追われた坂口が副社長に復帰しています。

新たにテレビ朝日から出向していた岡部政雄が取締役副社長に。同じく出向の永里高平が専務取締役に就任しています。

8月25日に代表取締役に就任した山本小鉄(勝)、大塚博美は代表権のない取締役に降格し、望月和治はテレビ朝日に復帰しました。

猪木のブラジルにおけるリサイクル事業であるアントンハイセルに新日本プロレスの営業収入がつぎ込まれているのでは?という疑惑に端を発した社内クーデターは僅か2か月半で元の鞘に収まりました。

改革派の野望は消えましたが、猪木に代表権を戻すように命令を下したのはテレビ朝日専務の三浦甲子二でした。

三浦専務はNETテレビ時代の69年に日本テレビの一局放送だった日本プロレス中継に割って入り、ワールドプロレスリング放送にこぎ着けた凄腕のテレビマンとして知られ、76年6月26日、日本武道館でのモハメド・アリと猪木の試合を資金面でバックアップしています。

アメリカ、日本が不参加となり盛り上がりには欠けたものの80年の旧ソビエト連邦共和国で開催されたモスクワ五輪の独占放映権を獲得する等、猪木同様激しい活躍ぶりで役員に名を連ねた人物でした。

三浦専務は山本小鉄以下新体制組に対し「お前らがトップを取るなら、猪木と坂口に新会社を作らせてテレ朝はそちらを放送してやる」と一喝。

猪木あっての新日本プロレスである事を改めて強調しました。

山本小鉄以下改革派はテレ朝の支援が得られなければ会社存続は不可能と考え白旗を上げた格好となりました。

しかし、過激な仕掛人として猪木の懐刀だった新間寿だけは新日本プロレスへの復帰は許されませんでした。

これはテレ朝側が望月前代表をテレ朝に戻すに際し「望月を戻すから、新間は復職させないように」との条件を付与したからと言われています。

テレ朝も金食い虫であったハイセル事業に猪木が傾倒していくのを快く思っていなかったのは事実で、猪木にはやはりプロレスに専念して欲しかったとの事です。

クーデターは未遂に終わったものの、この事件は翌年以降の新日本プロレスの流れを大きく変化させてしまい、日本のプロレス界を根底から揺さぶることになります。

猪木から「旅に出て、外の世界を見てくるのもいいんじゃないか」と直接クビ切りを通告された新間はジャパンライフという会社に勤務。

営業部長だった大塚直樹も11月末で旗揚げから勤め上げた新日本プロレスを退職。

大塚が退職の挨拶をしに猪木のところに行った際、猪木から、「これをやる」と、猪木が72年3月に新日本プロレスを旗揚げした時に資本金300万円で新設登記し休眠会社となっていた別法人、新日本プロレス興業株式会社の謄本を出して来ました。
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