『天寿国の末裔』『散華』
おお、また人が倒れた。あれは行基様の下の善知識の衆。あれが行基僧。大仏を造るのがこれほどまでに困難であると誰が予測したであろう。これほど人が傷み、死にゆくと誰が考えたであろう。知識の衆達のなんと勇敢なことか。倒れては立ち上がり、倒れては死にゆく。倒れては立ち上がり、倒れてはまた立ち上がり、倒れて死にゆく。誰か倒れればまた誰かが後に続く。切れることなく、たゆむことなく必ず誰かが後に続く。
知識の僧・衆達よ。自ら毘盧遮那那仏に結縁する無名の者達よ。汝等こそが眞の菩薩の行者よ。倒れし者を悼み悲しむ暇さえない。むしろ死に至ることを喜んでいるかの如くある。
読経する僧の青ざめた顔を見よ。ふるえる役人達の眼を見よ。そち達は経文の一つもろくに読めぬと誰かが笑うた。そう笑うた学僧や役人達の怯えた目を見よ。あの者達は蓮華蔵世界を本当に信じておるのだろうか。
知識の衆達を見よ。汗とほこりにまみれ、火に追われ煙にあぶられ、血と涙と咳にむせんでおる。そして倒れ死に至る。おお信仰とはまごうことなきこの者達の為にあるのだ。
毘盧遮那那仏よ。汝はどれほどの血肉を欲するのだ。この者達の、私の、帝様の心映えをいかに思うのだ。まだこの者達の血肉を欲しておるのか。
毘盧遮那那仏よ。日の本の大仏よ。そなたを造ることに少しの異論も無かった。しかし毘盧遮那那仏よ。そなたはあまりにも値が大きすぎる。
口汚い者達が言う。大仏は国益を損なう。人を酷使する。なんの値ありや。否、毘盧遮那那仏は呪われてある。
帝様は日に日に憔悴しておられる。心労のたえることがない。後悔しておられるやもしれぬ。なんとお慰めすればよいのか。
しかし何故これほどまでに人が死ぬのだ。これは試練なのか。知識の僧の勇敢な者達から死に絶えてゆく。行基様の配下がいくら大勢といえ、この損失は高くつくに違いない。
行基様が知識達の前で、指ひじを焼き、皮を剥いで見せたのはこのことのためだったのか。この者達の為ではなかったのか。
知識の僧になるにはこれだけの覚悟がいるのだ。労苦に耐え、貧苦に耐え、業火に耐えねば、一切衆生の救いは出来ぬと、身命を棄つることが出来ねば何も成らぬと。
なんと厳しい教えであろう。しかしあの者達は行基様に仕え、喜んで死に挑みおる。おおなんと厳しき者達であろう。
ええい、あの者達に石を運ばせよ、柱を立てさせよ。しかし学僧に学僧の仕事もあろう。
役人に役人の仕事もあろう。
私度僧が増えて困ると、役人が言ったそうな。しかし見よ。あの者達の顔を。火に煽られ、煙に蒸せ、体中で毘盧遮那那仏の為に息をしておる。彼らをして僧と呼ばず、菩薩と呼ばずして、何をもちて仏者と言うのか。
私は終生このような勇敢な者達を忘れないだろう。この国にこの者達のあることを決して忘れてはならないのだ。その為にこそ大仏はあるのだ。祈りと願いと血肉が、大毘盧遮那那佛として結実してあるのだ。
この日の本の国を作るのもこの者達なのだ。帝様はその為に一番に土を運ばれたのだ。この者達は後に続き身命を賭けておる。帝様の心映えのいかなることか。代われるなら代わりたいと考えておいでだろう。そのことは誰の目にも明らかであろう。
帝様が権力を振るい、大仏三昧と誰か言う。決してそうではない。ならば知識の者達はついてこぬ。日の本を荘厳な仏国土と成すこと。このことがあの者等には理解できぬ。光明遍照、四民のあまねく世界に仏法を興隆すること。それにより一切衆生を救済すること、それが私の、帝様の願いであらせられる。それこそが帝様ならではの仕事。この国の万民を、飢饉から、疫病から、天変地異から、異国から守らねばならぬ。帝様の御代までいかに戦の多かったことか。仏法にて日の本に高貴な徳を掲げる。これによりまつろわぬ者達、まつろわぬ国と相対しようと考えておられる。富も力も、人の心まではとどかぬ。あの方はそう考えておいでだ。その為の手本とならねばならぬ。あの方はそう考えておられる。
善でなければならぬ。真であらねばならぬ。美でなくてはならぬ。帝様が言うておられた。
なんのことか。知識の僧や衆徒達を見てわかった。いまこの土を見て、清いと思う。
基王よ。そなたと共に帝様はこの偉業を成し遂げようと考えておられたのだ。基王よ。金色に輝く大毘盧遮那那佛が浄土の空より見えるであろう。見るが良い。今ここで母上も土を運ぼうぞ。
『おい。見ろ。皇后様が倒れた者の顔をふいておられる。お止めしろ。』『おい、官女達までもが倒れた者を介抱しておる。衆徒を運ぼうとしている。誰か止めろ』『見ろ。涙を流しておいでじゃ。』『皆で手伝うのじゃ。早く致せ。』
『我らが為に泣いてくださる。』
『気絶え』(鉱毒)
大仏の鋳造作業の後に「鋳浚い」という作業がある。鋳型からはみ出した地金を、鏨（たがね）や鑢（やすり）で削ぎ落とし、砥石などで表面を滑らかにする作業である。
大仏の塗金作業に於いて、不思議な事故と、それによる死傷者が出た。鉱毒によるガス中毒死である。その中に多くの行基衆・知識達、少数の蝦夷達がいたであろう。
「鍍金」には伊勢産の水銀が使用される。水銀は金・銀と合金する特性をもつ。銅を梅酢で拭っては、水銀に溶解させた金を付着させる。その後炭火で表面を炙り、水銀を蒸発させる。この時仏師は蒸発する水銀ガスを吸い、呼吸器や中枢神経を侵される。目や鼻も悪くする。顔色は悪くなり咳き込む。生気がなくなる。後に病となり死に至る。
（ 天平大仏記 澤田ふじ子 Ｐ．
輝く未来の為に、新しき現実世界の為に、精神の昇華なくして大仏建立はありえない。
そして一枝の草・一握りの土と喩えたボランティアの精神が、殉教の精神へ、或いは愛国者の殉死、殉国へと精神は昇華してゆく。これは日本建国の過程と見るべきだ。国家建設の蹉跌の道でありロマンなのだ。それとも鞭と槍との、恫喝の恐怖政治の徹底で、民衆を大量動員してこの偉業は成し得たのだろうか。
○『閏三月 この頃、盧遮那大佛像の後背を造り始む。』
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