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2021年01月12日08:06

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甘粕正彦と李香蘭

『甘粕正彦と李香蘭: 満映という舞台』小林英夫著、勉誠出版2015年発行。
幻となった満洲という舞台で理事長と看板女優が求め続けた理想について描かれていました。李香蘭についてはこれまで複数読み聞きして来ましたが、殺人犯=悪人というイメージを貼られた感のある甘粕正彦については認識を一変させられる一冊でした。芸術文化に対する深い造詣と教養を併せ持った文化人、情報収集能力と統率力に優れた辣腕の実務家、、、読み見直す度に、生きて日本再生に尽くして欲しかったと思わされてしまう人物の一人です。 『支那の夜』中における長谷川一夫による殴打シーンが引き金となり、日本人でありながら中国人役を演じなければならない苦悩に苦しんだ李香蘭が満映退社を決意、1944年秋に甘粕に対してその旨を申し出ると、激怒すると思いきや甘粕は「よくわかりました。長い間ご苦労様でした」と述べたとの美談が『李香蘭 私の半生』に書かれてはいるが、真相は定かではない、とも。大杉栄らを殺害したとされる「犯人」でありながら、1年3ヶ月で出所した様々な背景を調べてみると上級者の身代わりで牢獄されたのでは、と判断せざるを得ないように思わされて来ます。不足する物資の中でも特に映画フィルム用のゼラチン製造事業を開始したフットワークの良さに感心させられ。迫り来るソ蒙軍を避けて満映社員を逸早く逃し、軍官優先で民衆を放置した関東軍との差が歴然であった、と。退職金の手配後に青酸カリで服毒自殺を遂げた甘粕正彦の死を悼む人が多い事も改めて知りました。日本敗戦を予め予測し満映経営者としての責任ある具体的に素早い行動を実施していた甘粕に比べ、関東軍の醜いもたつきがクローズアップされています。 もし関東軍参謀が草地貞吾ではなく甘粕正彦であったならソ蒙軍侵入への対応は的確、迅速になされ、悲惨事は相当回避されたであろう、と。万一の場合は自殺する事を公言して来た甘粕は、彼の自殺を阻もうと注意を払っていた周囲の隙をつき、1945年8月20日、ソ蒙軍が長春に侵攻して来るその朝に青酸カリ自殺を遂げた、と。理事長室黒板に「大ばくち身ぐるみぬいですってんてん」と書き遺し。享年54歳。
満映の活動は1937年8月〜 1945年8月の8年間。「王道」を通じて「覇道」の実現を目指した甘粕正彦が、事実上満映最後の作品となる『私の鶯』をロシア語で作成する事を許可した背後に、敗戦を予測しつつも「文化戦での勝利」という最後の切り札を用意した、のではないか?、と。李香蘭は甘粕正彦から次第に川喜多長政への関与を多くしたが、決してある特定の思想と講堂に縛られる人間ではなかったが、それに無関心な人物でもなかった、と。因みに、後日 北朝鮮主席となる金日成も間島で李香蘭の映画を観た、と語ったらしい、との事。間島とは、かんとう、豆満江以北の満州にある朝鮮民族居住地、主に現在の中国吉林省東部の延辺朝鮮族自治州一帯で中心都市は延吉、豆満江を挟んで北朝鮮と向かい合い、墾島とも言った、と。
さて、甘粕正彦を読めば、川喜多長政についても読まないわけにはいかなくなります。甘粕正彦と好敵手とされた川喜多長政は甘粕より8ヶ月早く上海で映画界に飛び込んだが、そもそも清国で暗殺された自身の父親の死の謎を解く為に中国へ関心を寄せ続けた1917年に北京へ留学、1919年の五四運動の中でドイツへ留学していた、と。満映の甘粕正彦 vs 中華電影の川喜多長政、という対立構図についてはまだまだ学ぶ余地多しと痛感させられます。
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