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2019年12月12日22:21

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古寺炎上

『古寺(こじ)炎上 』司馬遼太郎著、角川小説新書 昭和37年10月15日発行。
司馬遼太郎自身が失敗作、と認めている、らしい、本著は『豚と薔薇』との二作建てになっています。一般の書店や図書館には置かれてはおらず、都立図書館から取り寄せ館内閲覧させて頂いた次第です。『古寺(こじ)炎上 』についてはそういった先入観も手伝い、91ページをどうやって読み終えたらいいのか、少し頭を抱えながらも一応は書かれている91ページを読み終えました。大阪勤務時代の司馬遼太郎、彼がこの小説で何を狙いたかったのか、何で本作品を完遂する事なく?挫折してしまったのか、その頃の司馬遼の生活振りにも被さる事があるのかもしれませんね。福家葉子の育った長崎県五島には鬼灯(ほうずき)と呼ばれる血の色をした月が照っていた。福家葉子と檜垣純一が阪急梅田駅から京都へ、売店で買った四種類の朝刊のどの社会面トップにも延喜(えんぎ)寺の炎上と門跡代務者の焼死が扱われていた、「金が歩いている」と檜垣が真面目な顔で、「寺が焼けたのにこれだけの見物人が来る、、こんにち、観光寺院ほど濡れ手で粟の事業はない、寺は死人で金を儲けている、やくざ者のおれが死人をもとでに金を儲けても悪くはあるまい、あの池沢って奴の面、、」と。新聞では、池沢、いや、門跡代務者 沢柳隆寛権僧正の死は全くの事故死であり、熟睡中に煙に巻かれて窒息、焼死したらしい、と報じている。檜垣純一は別の角度から、この事件は放火で他殺、と信じていた、「この寺は、金が入りすぎている」と。三門のそばに設けられている火事見舞尋問客の為の受付に置かれている名刺入れを整理させて貰った檜垣は、五十枚程の名刺の殆どが銀行や証券会社のものであり、近頃の宗教法人というものの側面を物語っていた、と実感。兼堂という雅号を持った小柄な老人が檜垣に対して「君、昭和二十四年に金閣寺が燃えたことを知っているか、あれは放火やった、犯人は現場で捕まった。住職の内弟子でまだ宗教大学へ通っている雲水だった。」と。兼堂は昨夜焼けた延喜寺のことは言わずに、昭和二十四年に焼けた金閣寺の事ばかりを熱心に語り始めた、、、やくざのくせに酒がのめない檜垣、その上 スピード恐怖症で急行電車が怖くて甘党の檜垣。旧幕時代迄は幕府が仏教戒律の監視者となっていたのに、明治になって俗権が教権に干渉するような法律は近代的ではないとして、明治初年、太政官令によってそれが廃止され、僧の性の解放が行われ、全国の僧は争って妻帯した。東南アジアの仏教国の者が日本の僧をみて不思議がるのはこの点である、と司馬遼太郎の述懐が続く。天満の与力町の安アパート、とか、曾根崎のクラブ「S」、とか、心斎橋や宗右衛門町裏とか、、きっと司馬遼太郎の生活圏内だったのでしょう。お友だちという意味の「いろ」、という言葉なんて。阪急豊中 桜町に住む寅田という医者を揺すって金にしようとする檜垣だったが、殺された。。金閣寺のみならず、洛西で朽ち果てようとしていた延喜寺も巨万の富をうむ寺になった、と。昔は中学の英語教師をしていたという、参考人として呼ばれた老川柳家である兼堂老人は発狂、入院、「境内の愛染明王さまが、殺れ、といったのだ、、仏法を守るための傲魔の聖業をしてやった」と繰り返した、と。兼堂は沢柳の延髄の辺りに鉄針を差し込んだ、と告白、また檜垣は誰に殺されたのか、、、、、、、、ここ91ページで終わっている。当時の司馬遼太郎に何があったのか、、、? 辛うじて残っている書籍を前に呆然としました。『金閣寺』『金閣炎上』『五番町夕霧楼』『金閣寺の燃やし方』を読んで『炎上』『五番町夕霧楼』を観た後に本書を味わおうとしました。どなたかの解説を少し探してみようと思います。
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