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2020年06月11日11:56

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6/7 神田日勝 大地への筆触@東京ステーションギャラリー

東京は4月18日〜6月28日の会期で、その後北海道の2カ所で巡回の予定であった。コロナ禍で初日開幕ができず、6月2日開幕となる。東京では27日間だけの展示。イベントも全て中止になった。


神田日勝に惹かれたのは、1枚のフライヤーに載っていた作品たちと、朝ドラ「なつぞら」山田天陽のモチーフであるという情報で、基礎知識がまるでない。初日に未亡人神田ミサ子さんと冨田館長の対談があり、早速申し込んだ。が、あえなく中止決定。そしてまさかの開幕延期。

ドラマでは、吉沢亮君が山田天陽を演じていた。山田家は戦火を逃れて東京から北海道十勝に入植。が、よそ者はすぐに土地に馴染めず、痩せた荒地を与えられ、騙されて廃馬をなけなしの金で買うはめに。なつの育ての祖父は、開拓第一世代の無口で厳しい人だが、なつに絆されて、一家の手助けをする。草刈正雄の演技がすご〜く良くて、後半はあまり面白くなかったが惰性で最後までみたドラマだ。

天陽となつ、淡い恋心が切なかったが、北海道の大地で絵を描き続けながら農民として生きる決心をした天陽はカッコ良かった。吉沢くんのビジュアルもキャラクター作りに欠かせなかったし、生涯馬だけを描き続けるという設定もよかった。

だから、神田日勝の自画像を見て「やーん、イメージ壊れちゃう」というミーハー乙女の身勝手さにくわえて、木訥な馬の絵がよかったのに、全然違うタイプの絵も描いてる、と知った戸惑いで、コロナ禍中に天下の東京駅に出かけていくのは少々二の足を踏んだ。
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三密回避対策で、日時指定の予約制。ただし「東京都駅周辺共通券」持参の者は予約なしでOK。1時に入場、3時に退場。予約者が枠いっぱいだったのか、それとも申込者が少なかったのかわからないが、先日の江戸博と同じくらいの観覧者数。平均年齢はいつもより若い。東京に来たついでに見るという人がいないからだろう。三密は回避できる。



スマホとイヤホン持参すれば、QRコード読み取って無料音声ガイドを聞くことができる。ナビゲーションは吉沢亮君。泣けた…。



私の拙いレポでは紹介しきれないのだが、この画家を知ってよかった、そして、もっと生きていて作品を残して欲しかった、と切に思い、涙が出た。美術展で涙を流すのは久しぶり。ドラマと同じく、32歳の若さで病死。



「ぶら美」で一貫して強調していたのが、彼は貧しい中で独学で絵を描いたということ、だから空間認識が少し変であること、でもそれがいい味になっていて彼の個性であること、高度経済成長期なのに情報の少ない偏狭の地で中央のアートシーン情報をかき集め、貪欲に作品に取り入れていたこと、農民として大地に生きながら自分の絵を模索し、常に挑戦し続けていたこと、など。

そんな話を思い出しながら、見たらまた泣けた。

チラシを見たときは、時代によって画風が全く違う(色や筆触、モチーフ。特に色は、渋いモノクロームから鮮やかな原色と変化が激しい)と思ったが、実際に見ると、中心にあるものがぶれていなくて、神田日勝は神田日勝なんだとわかった。
時代の潮流や影響受けた画家を敏感、貪欲に取り入れてはいるけれど、その未完成さが次への期待となっていた。


展示には、使っていた画材、参考にしたと思われる他の画家の絵(新聞や雑誌の表紙など)の図版のスクラップもあった。

画材には筆がない。彼の作品は全てパレットナイフで描いていた、細かな馬の毛1本1本ももナイフで丹念に絵具を重ねていったのだ。

スクラップには、彼が愛したセザンヌやゴッホ、曹良奎、吉村治良、それに我が家のお宝木内克の絵も。最先端をいく現代画家が表紙を務めた「朝日ジャーナル」はその表紙絵が欲しくて定期購読をしていたそうだ。


話はモチーフに戻るが、中でも馬の絵には涙が出た。開墾には農耕馬が欠かせない。苦楽を共にする大切な相棒なのだ。彼の馬の絵はいつも画面いっぱいに描かれていて、どれも顔が左向きの横側スタイル。肩や腹側面に「胴引き」の跡が見える。重い馬具をつけて開墾するのでそこの毛が擦れて剥げるのだ。その部分を隠すことなく、まるで勲章のように描く。彼の馬に馬具をつけたものはない、裸馬だ。つまり、仕事を終えた姿なのだ。彼は馬を心から愛していたのだなと、馬の絵を前にするたび新たな涙が溢れた。絵からは泣けるほど、想いが伝わってきたのだ。

そして絶筆となった馬の前半身、未完の作品。これは最後に画像と共に紹介しよう。


会期は短いし、好みもあるだろうけれど、お勧めの展覧会。6月28日まで。ぜひ。



https://kandanissho2020.jp/
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1 プロローグ:1952年〜1956年絵画を本格的に始め、展覧会で入選。1956年〜59年黎明期

1956年《痩馬》フォト

1957年《馬》フォト
入植間もなく、開墾のために購入した馬は二束三文の廃馬だった。無知につけ込まれ騙されて高く売りつけられたのだった。
あばらが浮いて力なく餌をはむ。悔しさと切なさがにじむが、画面いっぱいに描いた馬に愛を感じる。うるうる…

2 壁と人


1961年《ゴミ箱》
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ナイフだけで丹念に色を重ねていっている。あからさまな主義主張はしていないが、硬派なマチエール、茶系モノクローム、生活に密着した題材で、当時の社会派リアリズムに属した感じ。労働しながら絵を続けていくとプロレタリアアートになりがちだが、時代を超えていいものは残る。



1963年《飯場の風景》

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神田一明 1961年《赤い室内》フォト
神田日勝の兄、ドラマと同じように兄は東京の藝大へ進む。アニメーターではなく教師になったようだが。技術的なことは藝大学生の兄から学んだ。画風、似ている。兄弟仲がよかったのにほっとする。




曹良奎 1958年《マンホールB》フォト

技術指導は兄であったが、影響を受けたのは、この絵を見たら明らかにこちらだとわかる。《ゴミ箱》を挟んで、兄と曹良奎のこの3点が並ぶ。神田日勝を形成したふたりか。

同時に、曹良奎と言う画家、気になる。次の展示室に行って。おお!と思い出した。

曹良奎 1957年《密閉せる倉庫》フォト
近美の常設展でしばしば遭遇。ものすごく惹かれる絵なのだが、画家に対する予備知識がない。いつも調べようと思うのだが、名前自体が読めないので、面倒になってそのままとなっていた。ジョセンギュと読む。朝鮮人だ。今回こそはググってみた。

https://www.ha-jw.com/japan/artist/%E6%9B%BA%E8%89%AF%E5%A5%8E/

長いですが、ご興味があったら是非読んでください。
折しも、STAY HOMEでマイミクさんが、録画したNHKドジュメンタリー「アナザーストーリー《イムジン河》」ダビングして送ってくれた。それをみたばかりだった。
在日朝鮮人、南北分断、日本人妻、帰郷、、、、いったんは祖国を出て日本で画家となった曹良奎、北へ帰郷して程なく消息がぷっつり途絶えたという。いまもどこかで描き続けているのだろうか…



1964年《一人》フォト

壁の前の人、塀の後ろの人、日勝の代表的構図だが、ルーツは曹良奎ですね。10歳上の、会ったこともない盟友に何を感じていただろう。それにしてもこの壁、素晴らしい。左上の漆黒の穴はどこに通じているのか、何を意味しているのか。



3 牛馬を見つめる
ここから赤煉瓦の展示室。

1965年《馬》フォト
冒頭でも述べたが、彼の馬の絵は見ただけで涙が溢れる。この日は一度スイッチが入っちゃたので、何度でも。マスクで表情が隠せて便利。

従順で優しいまなざし、たくましい肢体を静かに佇ませて、画面いっぱいに描く。
そして1本1本丁寧に描いた毛並み、どんだけ馬を愛しているか。

1966年《開拓の馬》フォト

鹿追神社に奉納された絵馬。日勝は下塗りせず、ベニヤ板に直接絵を描いていく。絵馬もそうだ。



そして極付け…号泣。
1965年《死馬》
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まだ暖かい肉体、しっとりした被毛、慈しむように描く。日勝の絵を見てどうしてこんなに涙が出るのかわかった。愛猫をなくした翌日、荼毘に付すまでの丸一日、私は部屋に安置した遺体を撮り続けていた。その時の思いと重なったのだった。
左上壁、煉瓦で囲まれた黒い穴は《一人》にも用いられたモチーフ。



1966年《牛》フォト
こちらも亡くなったばかりの牛。お腹が切り開かれているのは、死んだ牛の内臓にガスが溜まるのを出すため。しかし、その内臓からは逆に命が迸るように見える。鎮魂でおわらぬ何かを描きたかったんだろうか。これを境に日勝の絵はモノクロームから鮮やかな色彩に変わっていく。



1966年《静物》フォト
一つ一つが色彩豊かに大事に描かれている。しかしこの年十勝地方は冷害であったという。

4 画室・室内風景

1966年《画室A》
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自身のアトリエをまだ持っていなかった日勝は、新聞記事で見た山口薫のアトリエを参考にして描いた。

1967年《画室E》
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ポップアートの色遣い。アンディ・ウォホルのシルクスクリーンなども見たのかな。



1967年《室内風景》
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そして本人登場。布団のそばに絵具、寝ても覚めても絵を描く。一方、SONYのラジオ(ああ、当時モスクワ放送の方がよく入っただろうに)にSANYOのテレビ、セダンの新聞広告。新聞を描くのは当時流行したアートだが、日勝の生活環境を思いながら見るとひとしお。

1970年《室内風景》フォト
びっしり描き込まれた新聞紙を見て、同じくステーションギャラリーでみた吉村芳生を思い出す、冨田館長の好みか。ちなみに、「なつぞら」が決まるずっと前にこの展覧会は決定していたそうだ。
いつも平面的な日照の絵だが、この絵には左右の壁か描かれており、そのことによって閉塞感を感じる。
魚の骨、林檎の皮、ゴミは常連のモチーフだが、閉じられたスケッチブックとマッチ箱の下敷きになったペンに着目したのは冨田館長。私は、ホースに曹良奎を思い出す。

1969年《ヘイと人》フォト
日勝は好んだ各モチーフを、様々な試みの中で、いろんな形で繰り返し用いる画家なのだね。ベトナム戦争の文字も見える。

5 アンフォルメルの試み

1968年《人と牛A》フォト



1968年《晴れた日の風景》フォト

6 十勝の風景

1966年ごろ《風景》フォト
そこそこ売れていた日勝は注文制作もうける。ドラマでは信金に頼まれて入院中にカレンダーの原画を描いていたっけ。じっさいカレンダーの原画制作などやっていた。普通にちゃんとうまい。



7 エピローグ〜未完の馬


年表によると、ずっと体が悪かったわけではなく、むしろ都会(東京練馬出身)生まれとは思えない屈強な体の持ち主だったようだが、画業と農業の両立で過労、腎臓を悪くして32歳で没。画室には未完の作品や構想デッサンが多く残されていたと言う。


1970年《静物・家》(未完)フォト

1970年ごろ《馬》フォト


1970年《馬》(絶筆・未完)

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日勝は不思議な描き方をする。ベニヤ板に下塗りをせず、鉛筆でおおよその「アテ」だけ描いて、いきなり馬の顔から描き始める。しかもそこを完成させてから次に移るのだ。だから未完の作品はこうなる。どんな色をどんなふうに塗り重ねていったのかも手に取るようにわかる。
背景に何を考えていたのか、デッサンを見て想像するしかないが、楽しい。

未完は未完のままで、また心を打ち、また涙が出る仕儀と相成ったが、展覧会に間に合わなくて、夜美術にきてはで描き足すと言う山口晃氏のように、描き続けてくれないかなぁ、と夢想する。



8月23日は、日勝の命日「馬耕忌」だそうだ。いつか神田日勝記念館にも行ってみたい(と妄想)。北海道の友人に話したら、もちろん知っていて、ドラマの菓子屋「雪月」のモデルとなった柳月のお菓子も美味しいらしい。

東京は6月28日まで



日勝に敬意を評して(ステーションギャラリーの壁)撮りました
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東京駅北口、人はまばらフォト


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