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2019年10月17日10:20

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10/14 没後90年記念岸田劉生展@東京ステーションギャラリー

年始に買った2冊の「東京駅周辺美術館共通券」、東京ステーションギャラリーは、私一人がメスキータ展を見てしまった。残るは1枚、残るは岸田劉生展。
岸田劉生といえば「麗子像」フォト
そして、この麗子像を「すきっ!」と言える人は、正直なところ少ないんじゃないかと思う。ぎゅっと上から押しつぶしたようなおかしな縦横比、いくら日本人だからと言ってもここまで強調されていいのかの切れ長の目、執拗に描き込まれたヌメッとした肌合い、 体に対して異常に小さいおばあさんのような手、どう見たって可愛いとはいえない。初めて見たときは怖くて大嫌いだった。が、長じて、明治黎明期のヘンテコ日本西洋画も知るようになって、岸田劉生ってすごく上手いんじゃないかと思うようになった。そして、今回、たった38年の生涯の中で日本画まで描いていたことを知り、ちゃんと知っておこうと思った。

好きではないけれど、有名だし、知っておきたい、そう思う人が多いのだろう、会期末とあって結構混んでいた。展示はほぼ時系列でわかりやすい。しかも、多くの言葉やエピソードを残している。なので、彼が、対象物をどんな風に捉えていくべきか、どんな風にカンバスに写し取っていくべきか、を探求した足跡が見て取れる。麗子像や切通しの風景画しか知らなかったが、祈りのような、或いは哲学的な、静物画はとても良かったし、飄々とした楽しい日本画も気に入った。やはり、展覧会は足を運ぶべきだ。

http://www.ejrcf.or.jp/gallery/exhibition/201908_kishida.html
画家・岸田劉生(1891−1929)は、日本の近代美術の歴史において最も独創的な絵画の道を歩んだ孤高の存在です。明治の先覚者・岸田吟香を父として東京・銀座に生まれ、父の死後はキリスト教会の牧師を志しますが、独学で水彩画を制作するなかで、画家になることを勧められ、黒田清輝の主宰する白馬会葵橋洋画研究所で本格的に油彩画を学びます。そして、雑誌『白樺』が紹介する「後期印象派」の画家たち(ゴッホ、ゴーギャン、マティスら)を知り、大きな衝撃を受けます。1912年には、斎藤与里、高村光太郎、萬鐡五郎らとともにヒユウザン会を結成、強烈な色彩と筆致による油彩画を発表します。しかし、画家としての自己の道を探究するために、徹底した細密描写による写実表現を突きつめ、その先にミケランジェロやデューラーら西洋古典絵画を発見、独創的な画風を確立します。1915年には、木村荘八、椿貞雄らとともに草土社を結成、若い画家たちに圧倒的な影響を与えました。また、最愛の娘・麗子の誕生を契機に、自己のなかの究極の写実による油彩画を志します。その後は、素描や水彩画、日本画にも真剣に取り組み、再び油彩画に「新しい道」を探究しはじめた1929年、満洲旅行から帰国直後に体調を崩して、山口県の徳山において客死しました。享年38歳でした。
本展では、岸田劉生の絵画の道において、道標となる作品を選び、会期中150点以上の作品を基本的に制作年代順に展示することで、その変転を繰り返した人生の歩みとともに、岸田劉生の芸術を顕彰しようとするものです。このたび没後90年を迎えて、一堂に名品が揃います。この機会をどうぞご堪能ください。

第1章「第二の誕生」まで:1907〜1913
第2章「近代的傾向…離れ」から「クラシックの感化」まで:1913〜1915
第3章「実在の神秘」を超えて:1915〜1918
第4章「東洋の美」への目覚め:1919〜1921
第5章「卑近美」と「写実の欠除」を巡って:1922〜1926
第6章「新しい余の道」へ:1926〜1929


《銀座と数寄屋橋畔》1910〜1911フォト
ゴッホ、ゴーギャンに傾倒していた時代

《築地居留地風景》1912年12月23日フォト
その中でもこの絵が好きだ。空の黄色、地面のピンクが画像よりずっと綺麗だった。この後デューラーに傾倒し、作風が一変する。

《B.L.の肖像》1913年5月12日フォト
親交があったバーナード・リーチ氏。セザンヌ風。この後「劉生の首狩り」と言われたほど、知合いの肖像画を片っ端から描く。それだけでは足りなく、自画像も多数。同じ展示室に8点もの自画像は変な感じ。しかもほぼ同じ角度。鏡を見つめ、何枚も一心不乱に描くのが劉生の粘着質。
《自画像》1913年12月25日フォト

《道路と土手と塀(切通之写生)》1915年11月5日フォト
近美でおなじみのこの絵。
《代々木付近(代々木付近の赤土風景)》1915年10月15日フォト
角度を変えて描いた絵がそばにかけられていて、興味深い。

《壺》1916年4月25日フォト
バーナード・リーチ作の壺。肌の質感が見事。不思議なのは画面いっぱいに描いて、上下が詰まっていること。バランスが悪いが、壺の存在感は増す。

《壺の上に林檎が載って在る》1916年11月3日フォト
わずか半年で、把手が欠けてしまった。そして、林檎が載って「在る」なんとも哲学的だ。

《林檎三個》1917年2月フォト
この展覧会の中で一番好きな絵。麗子が「一家三人、お互い労わり合い、慎ましやかに愛の歌を奏でている」と回想しているが、まさに。劉生の静物画はいいなぁ。

《静物(湯呑と茶碗と林檎三つ)》1917年8月31日フォト
湯呑もお茶碗も欠けている。生活は苦しかったらしい。

《静物(手を描き入れし静物)》1918年5月8日フォト
元の絵には、鉢の上方に林檎をつかもうとする手が描かれていたという、薄っすら見えた。悪趣味と評判は悪かったが、劉生が牧師を目指していたクリスチャンであったことを思い起こすと納得。抽象画なのだ。肖像画にあるアーチの装飾も手に花を持つスタイルも宗教画っぽい。

《麗子肖像(麗子五歳之像)》1918年10月8日フォト
切通風景とともに近美で何度お目にかかったことか。ちなみに、今回は、横に圧縮されたようなケープ姿の麗子像は来ていなかった。

《麗子坐像》1919年8月23日フォト
着物の絞りの凹凸がすごい。泣きそうな顔なのは、劉生が一心不乱に描いているので、痛みに耐えてじっとモデルを務めていたからだそうだ。この展示室に麗子の像がずらり11点!ちょっと不気味(笑

《七童図》1922年9月13日フォト
《春日小閑》1928年頃フォト
関東大震災で被災して京都に移り住んだら、突然茶屋通いにハマる。執拗な性格、凝り性なんだな。そして日本画。飄々としてこれもまたいい。

《白狗図》 1923年2月13日か15日フォト
毛描きも頑張る。

《冬瓜図》1926年3月フォト
《冬瓜茄子図》1926年夏フォト

油彩(上)でも日本画(下)でも気に入った冬瓜を描く。とにかく器用で、上手い人だったんだと思う。そして見たままをどう写し取ろうかとなんどもチャレンジする執拗、粘着質な性格が絵に出る。もし38歳という若さでなくならず、長生きしていたらどんな画境に至ったんだろうかと思いを馳せた。

10月20日まで


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