梅雨に季節らしく、朝から雨が降っている。
ニュースによると九州地方は本日、激しい雨が降るそうだ。
思えば25年以上前、浪人時代には宮崎の都城という町に住んでいたが、その時の雨の降り方といったらそれはもう激しいものだった。
信じられないかもしれないが、梅雨の雨による災害で、毎年必ずと言っていいほど犠牲者が出ていたほどなのである。
ただでさえ南九州は桜島や霧島の火山灰土、つまりシラス台地がほとんどなので、土地ももろいのだろう。
土砂崩れなども珍しくはなかった。
当時「梅雨は人を殺さないと明けない」という地元の言葉を聞いたものだ。
この季節はもちろん、夏場も台風などでしょっちゅう激しい雨が降るため、暴風雨警報(当時の名称)ぐらいでは学校は休みにならなかった。
道路は側溝のあふれた水が流れて川のようになる。
そんな中を、自転車で高校まで通学したものだ。
靴下をはいてもどうせ濡れるだけなので、登校時は裸足で行き、学校に着いて上履きに履き替えてから履くみたいなことも一般的だった。
学生服のズボンのすそをまくり上げ、濡れないようにして通うことも黙認されていた。
なにしろ、九州以外だったらとっくに休校になっていただろうレベルのことだ。
「生活の知恵」というより、必要に迫られてのことだったと思う。
たまたま私がいた1993年だけそうだったのかも知れないが、今朝の広島の雨空と、九州の豪雨のニュースを聞くとそんなことを思い出す。
そういえば雨のおかげで、しばらく夢を見られたことがあった。
それは、通っていた高校の、甲子園出場の夢である。
梅雨の境目がどこかわからないような雨がちの天候の中で、高校野球の県予選大会の日程は押しに押した。
そしてそのなかで、私の通う、浪人生を対象とした補習科のあった高校は、当時甲子園未出場ながらくじ運や勝ち運にも恵まれ、ベスト4にまで勝ち上がったのである!
そしてそこで、降り続く長雨のためしばらく準決勝の試合が行えなくなってしまった。
じつに、8月に入っても甲子園出場の希望が残ったのである。
甲子園に行く実力があるとは思っていなかったが、出場出来たらどうしようか?この夢が終わってほしくない!などといろいろ思いを巡らせていたものだ。
そして8月3日ぐらいだっただろうか?
「試合が出来るかどうかわからない」と言われる状況の中で、とにかく会場の宮崎へ行った野球部員は準決勝の試合を戦い、0-5で敗れた。
そのことを知らせるテンションの低い校内放送が、今も忘れられない。
残念ではあったが、甲子園開幕のぎりぎりまで夢を見させてくれた当時の野球部の頑張りには感謝したいものだ。
その14年後に、同校は「100年の夢」と言われた甲子園出場を果たした。
降り続く雨を見ていると、そんな当時の状況がありありとよみがえってくる。
大学合格を目指したあの時の志を思い出して、今日も在宅勤務を頑張ろうと思っている今朝の私であった
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