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2020年01月21日20:38

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それはそれで

東日本大震災から10年、東北地方、関東地方の沿岸部が、あれほどの被害を被ったのに、今は町も整備されて、何事もなかったかのようです。
現在、日本中に行き届いている震災の教訓が今後に生かされるよう願っております。
もちろん、そのような震災が再びありませんように

■政府主催追悼式、来年まで=東日本大震災10年で「節目」―菅官房長官
(時事通信社 - 01月21日 12:02)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5943196
 3月11日に発生した東北、関東地方太平洋地震では東北地方の太平洋沿岸地域では大被害を被りました。私の職場は避難所となり、大勢の人々が避難してきました。
 石巻市や東松島市の人々も地域の避難所が飽和状態だったので、こちらの方に避難してきた方々もおりました。
 水道や電気が止まりました。当時、私が勤務していた施設は高台にあり、耐震がいきとどいた新しい建物だったので、多くの人々が避難してきました。
 沿岸部にある消防署の消防車両や救急車もこちらに避難して運動公園管理事務所は消防署の対策本部となりました。その後、地元の消防団の方々が来て、自家発電で起こした照明で室内を照らしてくれました。誰かが持っていたトランジスタのラジオが唯一の情報源でした。
 しばらくしてからおにぎりの配給があり、500人の人々におにぎりを配りました。
 長い時間、並ぶのが困難な高齢者には直接渡しました。駐車場まで行って車の人々にもおにぎりを渡していたスタッフもいました。 翌日は出荷間近の大量のトマトの時もありました。
 時折聞こえる防災無線からは大津波と町の中央を流れる川の氾濫を警戒するアナウンスが何度も聞こえて注意を促していました。
 大津波警報が解除されたのは3日後だったでしょうか。
 前年の平成22年12月に左足を骨折したので、平成23年2月28日まで入院していて、3月9日まで自宅静養して、3月10日から職場復帰して2日後の事でしたので、私も大変でした。
 怪我をした左足首が腫れてしまい、松葉づえで歩いていました。
 地震後、半月過ぎてからmixiをみたら私の安否を気遣うコメントが寄せられており、大いに励まされました。涙
 地域によっては海岸線から9キロ先まで津波が押し寄せて、多くの人命を奪っただけでなく、地域の人々が長年、慈しみながら積み上げて築き上げてきた地域の文化が、わずか一日で崩れ去りました。
 私の住んでいる地域は他の地域とは違い、大きな被害はなかったのですが、人との会話は津波の話ばかり、日を追う毎にテレビや新聞では報道されない、悲惨な出来事が聞こえてきました。 電気は早くても一週間後、水道は早いところでも2週間後の復旧でした。
 震災から何ヶ月は道路には警察、消防車両、自衛隊や大型車の復興車両支援車のひっきりなしの往来がありました。
 ローカルのテレビ等のマスメディアでは復興に向かい前向きに生きている人々のことが今でも毎日のようにとり上げられています。
 それをみながら私も頑張ろうと自らを奮い立たせている毎日です。
 あれ以来、私の日記も被災地報告のようになってしまいました。
 職場や施設だけでなく、駅のホームや仙台七夕、定禅寺ジャズストリートフェスティバルでも全国からの励ましのメッセージが数多く寄せられていました。励ましのメッセージでどれほど勇気づけられたことでしょう。ありがとうございました。
フォト

 
【東日本大震災から3年】3年前の3月11日、みんなどこで何してた?
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=114&from=diary&id=2797551
ウェブよりバッド(下向き矢印)
2011年3月11日14時46分、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生しました。
日本周辺で観測史上最大の激しい揺れと高さ10mを超える大津波、そして福島第1原発事故の放射能汚染が東北地方を襲った東日本大震災。その発生から今日で丸3年を迎えます。
3月10日の警視庁のまとめによると、全国の犠牲者は死者1万5884人、行方不明者2633人。避難生活による体調悪化などの「地震関連死」の2916人を加えると、東日本大震災による犠牲者は約2万1500人にのぼります。
3年前のあの日、あの巨大地震が起こったとき、みんなどこで何をしていたのか。あの瞬間、みんなの周りではどんなことが起こっていたのか。Pouch編集部のライターたちに聞いてみました。
■遅いランチ中に大きな揺れ(める)
オフィスがある新宿2丁目の雑居ビル1階のカフェでランチをとっていたら波のような揺れ。天井が何枚か落下してきたため、隣にいた客と思わず顔を見合わせ外に出た。地面も信号機もビルも波のようにグニャグニャと揺れた。
福島県に住む母に何度か電話をかけたがつながらず、ようやくつなっがったときはホッとした。家は無事だが、家具が倒れ食器が大量に割れて手がつけられない状況だという。夜遅く、父が帰宅したと連絡が入る。
私はというと電車が止まっているため帰宅できず、元いたカフェで同僚たちと相談。私は知人宅に避難することに。テレビでさらに詳細を知り、自然の脅威に打ちのめされた。
■テレビつけたまましばらく思考停止(綾部綾)
愛知県小牧市にいました。トラックが通っただけで揺れるような古いアパートに住んでいたので、ずいぶん大型のトレーラーが通ってるなあと思っていました。
10秒くらいたってから異変に気づいて、テレビをつけてからそのまま思考停止。2時間くらいポカンとしていたような気がします。夜、約束があったので名古屋まで出かけたのですが、メールも電話も通じにくくて困った覚えがあるなあ……。
■現実を受け入れられずにテレビを見続けていました(中野麦子)
当時、南米に住んでいた私は、ペルー人の友人の言葉で日本に起こった未曾有の災害を知りました。NHKで地震、津波、原発の様子を目の当たりにして、mixiで友人達の「まだ揺れてる。怖い」の叫びを聞きいて、何もできないもどかしさを感じました。商品が空っぽになったコンビニの映像をみているのに、日本に起きた出来事を信じられない自分がいました。
■東京・東十条のまちを歩いていました(田端あんじ)
「なにか揺れてるな〜、気のせいかな〜、いや地震だよな〜」から突如、ぐらぐらぐら! ブロック塀はぼろぼろ落ちるわ、大型トラックは上へ下へ跳ねるわ、電柱・電線もうなるわで、一体なにが起きているのか分かりませんでした。道行く人の悲鳴もすごかった。
揺れがおさまった直後、携帯で情報を集め現状を知り、すぐに福島の実家へ連絡を入れましたがつながらず。数時間後、やっとメールのやりとりができたとき、ホッとしたのを覚えています。
■子どもの迎えに走りました(大井たま)
横浜にいました。「いつもの地震と違う!」と感じて外に出ると、そこにいた人たちが折れそうなくらい揺れている電信柱を茫然と見ていました。交通機関が止まるだろうと思ったので、保育園にいる子どもを急いで迎えに行きました。これから行方不明者の数がどれだけ増えるのだろうか……と考えると、震えが止まりませんでした。
■東京都内の自宅にいました(鷺ノ宮やよい)
自宅にいました。エレベーターが止まり、高層階の人も階段を使うしかない状況に。家族も会社から歩いて夜遅くに帰宅しました。自然の大きな力の前に人間は無力であると実感させられました。震災後は人も状況も大きく混乱していただけに、流されることなく、常に心の平穏を保とうと意識していたのを覚えています。
■東京・杉並区の神社で缶ビール(纐纈タルコ)
取引先の出版社で打ち合わせをしていたら、猛烈な揺れ。打ち合わせはもちろん中止、その場でおひらきに。自分のアパートまで、30分ほどかけてひとり歩いて帰った。
歩くうち、何が起きたのかわからずひどく恐ろしくなり、缶ビールを買って通りがかった神社のベンチで飲む。大きな石灯籠が横倒しになっていた。カラスたちが神社の木に、異様な数集まっていた。味のしないビールを飲みながら、先のことを考えないようにしてじっと座り続けていた。
■以前務めていた会社で、新入社員の就職面接真っ最中(小池たらの子)
以前勤務していた出版社で、隣のデスクでは新入社員の面接が行われているところでした。志望動機や入社後にやりたい企画などの質問が飛び交う中、地震が発生。
本棚から本が雪崩を起こし、デスクに積まれた資料は乱雑に散らばりました。幸いなことに面接に来ていた方にも怪我はなく、無事に終わり、「後片付けだけが大変だ」と周りを見渡したところ……あまりの何時もの風景との大差のなさに愕然としました。
■骨折、婚約者との別れ(シマヅ)
婚約までしていた彼氏に、浮気疑惑をかけられる。当然、事実無根。私は彼が大好きだったので、「もう今後の展望はない」との彼の主張に「そうですか。思い込みもここまでくると害ですね」と半嫌味を言ったところ、半ギレされる。
地震発生時、高田馬場の河川敷でビールを飲みながら彼と話していたところ、突然の揺れ。橋の上を歩いていた私は、運悪く「落ちないようにするための柵」の間から川に転落。橋と川までの距離は8mほどだった。両足のカカトを折して4カ月弱、入院。その後、彼から連絡はない。
■ゆ〜らゆらと船にのっているような揺れ(楠木サンダル)
地震発生時、滋賀県草津市のビル2階にあるオフィスで原稿を書いていました。突然、ゆ〜らゆらと船にのっているかのような揺れを感じ、初めは「あれ、めまいかな!?」と思いました。しかし、徐々にその揺れが大きくなり、周りの人たちも「地震だ!」と騒ぎ出しました。
しばらく、そのゆ〜らゆらとした揺れが続いたものの、何かが落ちてきたり、壊れたりすることもなくそのうちにおさまりました。驚いたのは、オフィスのテレビをつけたとき。大きな、大きな津波が、東北地方の沿岸部へと押し寄せているところが映し出されていました。
その日、私はそのまま普通に仕事を続けて、普通に帰宅して、普通にごはんを食べて、普通に眠りました。
******
大津波にのまれた行方不明者の捜索、避難生活を続ける人たちの生活の安定、原発事故の全容解明……東日本大震災がもたらした多くの問題がなお山積みになっています。
「地震大国」といわれる日本に住む私たちが、自分の命を守るために、大切な人の命を守るために、今からどんな備えができるのか。3年が経った今、改めて考えるべきなのではないでしょうか。
執筆=楠木サンダル/ 撮影=Pouch yoshio (c) Pouch

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