この本にははっきりと私の眼を惹きつけ、そしてそれを自分でも感じる部分があった。それはベナレスの町をふらついていて迷い込んだ末、出くわしたガンジス河のある沐浴場での場面だった。
著者はカルカッタから一端ネパールのカトマンズに入り、数日滞在した後、インドへ戻って来ていた。その際、ヒンドゥー教にとって最大の聖地ベナレスを先ず目指している。そのベナレスを流れるガンジスの水で沐浴すればあらゆる罪は洗い流され清められるという聖地・ベナレスに関心があってそうしたのではなく、彼は言う、「ベナレスという町がカルカッタに匹敵するほどの、猥雑さと喧騒に満ちた町だと聞いたからだった。」 沢木耕太郎、正しく面目躍如といったイントロがあり、恐らく猥雑＆喧騒に酔い、日がな歩きに歩く。
ある日、道に迷い不意にガンジス河に出てくる。そこで、物凄いものに出会うことになる。そこには沐浴場があった。さらにその横に、死体焼場があったのだ。風向きが変わって漂ってきた不思議な臭いでそれを知ることに。よく見ると、黒く焦げた三つの塊が焼き終えられて、その姿・恰好から人間とわかるものだった。茫然と見入る沢木、ふと川辺を見るとそこには別の三つの死体が、運ばれてきた青竹の梯子から外され、石の上に置き、縄で縛られている。やがてそれを小舟に乗せて、岸を離れて行く。川中で男たちが、石ごと投げ捨てるのだった。
インドでは、疫病にかかったり、殺されたり自動車にはねられたりといった不慮の事故に遭って死んだ場合は、天寿を全うできなかったという理由で火葬されずに、そのまま水に流されるということらしい。沐浴で洗い清める人、普通に死んだ人、天寿を全うできなかった人が、奇しくも同じ場所で集結していたというわけだ。その船が戻ってきたところを眺めていると、先ほどの場所あたりの水面から、突然プクリと白っぽいものが浮いてきた。そして間髪を入れず空からカラスが舞い降り、それをついばみ始めた。ふと死体焼場の方を見ると、次から次へと新しい白や黄色い鮮やかな布に包まれた物体が運び込まれている。傍らに少し離れて野良牛がうろついている。沢木の眼を捉えたのは、その牛の異様さだった。そして、こう書いている、「死体を焼く煙が流れてくると、口を開け、目をさらに細め、首を前に突き出して恍惚とした表情で匂いを嗅ぐのだった。」彼は一日中、死体焼場にいて、焼かれたり水に流されたりする死体を眺めつづける。次の日も、また次の日も。
彼は数日をそうやって過ごし、無数の死に取り囲まれているうちに、「次第に私の頭の中は真っ白になり、体の中が空っぽになっていくように感じられてくる・・・」。そして夜ごと、浅い眠りの中で、その恍惚とした表情で匂いを嗅いでいる牛たちの夢をみるのだった。
この紀行文は、インドのすべてを語っているわけではない。猥雑さと喧騒に吸い寄せられるように訪ねることになる町で、その土地を歩きに歩く。そうして出会う町の、そして人々の生の姿。私には、カースト制度のことや、現代のハイテク産業で栄えるバンガロール、ノーベル平和賞受賞のマザーテレサのことなどもチラチラ頭をよぎる。が、場面は1980年代の東部インドにおける日本からの一旅人の眼に映る、純に生の現地のあれこれ、とりわけそこでは生と死が、雑念に邪魔されることなくスポンと頭に入り込んだのだと思う。数日間通い詰めたガンジスの河辺で去来したであろう「生と死」は、鮮明には語られずに、この旅人は次の地に行ってしまった。 （おわり）
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