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2020年05月27日15:16

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小説 中島敦『虎狩』について

ネットサーフィンしていて、たまたま偶然
この小説のことを綴ったブログを拝読し、
(ブログ)主様が親切にも
アラスジを丁寧に書かれて、
興味深い感想も添えてあるのですが
どうしても分からない部分があったので
ネット上の青空文庫(著作権切れで無料で読める)にて
原作の方を読み直しました。

短編なので30分もかからず有難かったです。

先ず、著者の中島敦 氏の解説。

2020年の今から──約80年前
日本では太平洋戦争中の1942年に33歳の若さで病没しており、
必然的に作品数は多くないのですが、
昭和の文豪と呼ばれる作家陣に
含まれて何ら遜色ない作家で、
中国古典の漢文に博識だった事もあり
一般的には高校国語の教科書の定番である
※『山月記』が知られています。


※…昔の中国で上級役人だった男が
  世間に馴染めず遁走。しまいには
  虎になってしまったという故事が元
  著者なりの解釈がとても秀逸


さて、作品『虎狩』についてですが、
極めて簡潔に述べると。日本統治下時代の朝鮮半島で
日本人の「私」が、少年期に友人だった朝鮮人の
「趙」の『虎狩』に参加した思い出話であります。

内容を読み解くと、虎狩自体は意外にも
割と淡々とした調子。

それより、「私」から俯瞰しえる「趙」のコンプレックスが
思い出話の一環として綴られておりますが、
そこに話の本筋が現れているように思えます。

語の終盤では年月経ち大人になり、日本で再会したものの、
特に感動的といった状況でもなく、ふとした切っ掛けから
「趙」だと気付いた時には、彼は立ち去っていた。
という結末です。

ブログ拝読時にあった、
どうしても分からない部分、というのは──

再会時に、「私」と「趙」の他愛ない──
そこだけ切り取ると意図が分かりかねるやり取りを、
なぜオチに持ってきたのか、
あらすじで読み取れなかった
己の読解力の至らなさを恥じつつ、原作を紐解き
知りたいなと思いました。

「趙」のコンプレックスとは何なのか──

一般的には、コンプレックス=劣等感と
置き換えられる場面が多々ありますが、
原作でもブログでもこの単語は使われていません。
独自に解釈し、引用しまして、
複雑な感情としての意味合いで、この場では使ってます。

「趙」は、人一倍強さに拘っていました。

同時に、友人である「私」から見て
弱さもあると感じていました。

元々、彼らが友人になった切っ掛け自体、
子供同士の喧嘩が発端です。
互いの強弱を共有できたからこそ
友人になれたのだと解釈します。

タイトルになっている『虎狩』も
もちろん重要です。

虎という強者に対して、尋常でない覚悟や備えをし
朝鮮貴族の末裔である趙家の虎狩に
意気込んで参加した「私」ですが、
高揚した気持ちと反比例するかのように、
※狩り自体は淡々と終わってしまいました。


※…簡潔に述べると、手練れのハンターが安全な場所から
  銃で仕留めました。


ここでの「趙」は、まだ少年という面もありますが
自身が退治できた訳でもないのに
虎に遭遇しただけで気絶した大人(無傷)を邪険に扱い
冷徹な印象を受けますが、
倒れた大人を弱い者として扱い
その対比で自身の強さを認識したかった、とも見えます。

さて、数十年の月日がたち、
大人となった「私」が偶然見つけた「趙」は
街中の群衆で周囲より頭一つ目立つ高身長でありながら、
それを持て余すかのように
うらぶれた風貌で、正直強そうには見えません。
しかも、ボロい眼鏡をかけています。

ある意味目立つ彼を、好奇心の目で見ていた「私」
すると目が合い、会釈をされるも、どうにも思い出せない。
知人で間違いない様子だが
朝鮮貴族の末裔で裕福だった子供時代の彼と
リンクしなかったので、別れる時まで気づけませんでした。

咄嗟に、煙草を一本くれないかと声を掛けられた
「私」が煙草を差し出すと、彼は受け取りません。
不審に思ったら、彼がポケットをまさぐり、何か気付いた様子。
彼が求めていたのは、煙草では無くて、マッチでした。

単にそれだけの勘違いですが──

非常に丁寧に、
何故そのような勘違いをしたのか説明してきます、饒舌に。
本人にとってはとても重要に捉えている様子ですが
「私」だけでなく、読者にとって最も重要な
朝鮮時代の友人だよね、という台詞は一度も出ませんでした。

そして、彼はまるで都合よくかのように訪れた
路面電車に飛び乗り去っていきます。
まるで逃げるかのように…。
それまでのやり取りを遡り、ようやく
「私」が彼を「趙」と気付いた時既に──

ここで一読者としての感想を一つ。

ダジャレのつもりは毛頭ないのですが──

『虎狩』というタイトルを
『強がり』と置き換えられるのではないかなと
フッと思いつきました。

ここだけ切り取るとオチもくそも無いダジャレですが、
原作では短編にも関わらず凄く丁寧に
「趙」との少年期の交流を描かれているので、
あながち外れてもないかな、と思ったり。

「趙」のコンプレックスとは──

強くありたい自身と、相反する弱い自分。
現代風に表現すると、子供ながらに上級生に突っ張って
睨みを利かせる反面、好きな女学生に告白できなかったり
上級生から集団リンチを受けた後、
友人である「私」の前では大泣きしたりと、
他様々な節目で彼の複雑な感情が読み取れます。

大人になって「私」と再会し、そのタイミングで
友人だと言えば良かったのに、取り繕うような──
ある意味必死に、些細な勘違いの弁明を熱心に…
今の自身を正直に表現できなかったのではないかと。

これってまさに…(敢えてダジャレは書きません)

さて、今更ですが、
文豪・中島敦 氏の作品としては
あまり知られていない『虎狩』
懸賞小説のコンクールに応募し、著者自身は出来に自信満々だったと
伝えられておりますが、結果は選外佳作──
ストレートに落胆した様ですが、
何となく分かる気がします。

「趙」の言動や行動を一つ一つ丁寧に取り上げると
共感できる点とできない点、分かれます。
人によって違うと思います。
その違いを考察すると、個人的な感想では
すごく興味深い作品だと感じます。

だけど、正直あらすじを読んだ時点では分からず。
特に結末が??で、煙草?マッチ?何それ状態でしたが
それまでの過程を丁寧に遡って、考察して、
初めて面白いと思える内容です。

恐らく何も知らない状態で大枠だけ見ると
《朝鮮》という国家的ワードが様々な解釈を孕むので
一人歩きしてしまう危険性が高いですが、
個人的にはそれが著者の伝えたい本筋ではないかと。

客観的視点に立つ「私」から見た複雑な「趙」
凄くシンプルに例えるとこれだけ。

ちなみに舞台が朝鮮の由来は、著者自身が引っ越し家庭で
当地にも在住経験あり、それが土台と容易に分かるのも
シンプルさが伝わりますよね。

しかし、

その複雑な「趙」の──
コンプレックス
これを考察して初めて面白いと、
そういう作品なのかなと。

なので、ぱっと見わかりやすい感じじゃないので
佳作止まりだったのかなと。

心理や風景描写は巧みに描かれているので
そう思うと勿体ないと感じました。

まぁ、何となく書いた本人はガッツポ!
俺天才じゃね?って思う感じはします。
書いてる本人は書いてる最中は分かってて書いてるんだから、
そらそうだと。惜しむらくは読み手の取っつきやすさと共感性。
そこはクリエイターの陥りやすい罠ですな。

長々と失礼しました。
願わくば、短編でさらっと読めつつ、なおかつ無料w
空いた時間に暇つぶしで『虎狩』読んでみて下さいまし。

(゚∀゚)
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コメント

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