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2020年03月31日09:18

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競争と意見と責任と

近年、私が子供の頃と比べると、色々な事に差をつけない社会となりつつあるのでしょうか。

運動会での手を繋いでゴール!というのが今でも有るのか分かりませんが、これなどは「差をつけない」事の最たるものでしょう。

この話を初めて聞いた時に先ず感じたのは、「下らない事考えるなぁ」でした。
もちろん、アタマの良い人逹が色々考えた結果なのだと思いますが…

私などはこうした場で常にビリか、頑張ってもビリ2でした。
それは悲しかったし、運動会が雨で中止になれと思っていましたが(たぶんなった事は無い)、差がつく事は仕方無い事で、特に不満は感じません。

例えば試験をすれば点数が出ますし、世の中好むと好まざるに関わらず、順位をつけて差はついてきます。

かつて受験戦争と言われた時代の反省によるのでしょうか?
しかし、子供の頃から「差をつけない」社会が当たり前というのは如何なものか。

私の頃は子供が多かったので、学校もある種大量生産的になるのも仕方無かったと思います。
そして、子供が少ない時代、一人一人の個性を大事に…は理解できます。

周りがどうであっても、自分で計画をたて、自力で上がって行く人ばかりであるなら良いですが、実際はなかなかそうもいきません。
「差がついた」からこそ、「次は見返そう!」とか、「もっと努力しないと!」となるのでは…

運動会云々は、或いはイジメに繋がるのを危惧してか?
イジメというのは、そんな小手先の事で無くなりません。
その当事者になった事が無い人が、机上でいくら考えても一生分からないかもしれませんが、イジメとは、イジメる側は面白いからイジメるのです。
「イジメではなく遊びだった」という言い訳はよく有りますが、イジメる側にとってはそれが真実なのです。

その根本が分かっていないのに、「遊びの訳がないだろ!」と否定するだけでは、「臭いに蓋」な教師、学校が続くだけでしょう。

些か飛躍しましたが、共産主義が立ち行かなくなったのは、「競争」原理を否定し、その一方で「階層」という動かし難い現実が有った事も大きいと思います。

幼い頃から「競争」をさせず差をつけず…で、大人になれば厳しい現実に直面せざるを得ない…
それはかつての共産圏の姿に重なるかもしれません。

気のせいか、日本全体のイノベーションを生み出す力が低下しているような…
かつて圧倒的な力を持った家電は惨憺たる有り様だし、カメラや自動車はまだ力を持っていますが、今後もそうとは言い切れませんし、既に陰りの気配も感じます。

「差」をつけないなら、順位という小手先の事でなく、全ての子供に分け隔て無く、それぞれに合わせて接して行く事の方が重要でしょう。

幸か不幸か、子供が少ないという事は、それだけ1人あたりに目を注げる時間が増えているとも言えます。
私の頃は、1クラス45人前後でした。

さて
そうした流れと関係は有るのか無いのか?
「差別」という事に対して、実にナーバスな世の中になりました。

人種や宗教、身体的特徴などの差別はもちろんいけません。
ただ、「性差別」というのはどこまでがそうなのか?というのが難しい事もあります。

「女のくせに云々」というのは論外ですが、しかし「美人」といった表現も、時には性差別になり得るよう。

だとすれば…
例えば、昨年の日記に書いた件…
雨の中、タオルをかざして歩いていた女性に傘を渡したのも、考えようによっては性差別となるのでしょうか。
「男子たるもの女性には親切であるべき」という信念からですが、これなどは、かつての封建的性差別と言えなくもないかも…

こうなると悪意の有無がその要件ではなくなり、何が差別なのか判然としなくなってしまいます。

ところで「差別」は「別」という字を使いますが、現在使われている意味を考えれば、「蔑」の方が相応しい気がします。
つまり「区別する」事が悪いのではなく、「蔑すむ」事が悪いという考えです。

何もかも区別しないというのはかえって不都合な事も有るのでは…
そんな事より、お互いがお互いを尊重するのが「差蔑」を無くす事になると思うのですが…

ただ、実に下らない事ですが、飲み会の際に支払額で男女差をつけること…
それ自体は悪い事ではないと思います。

しかし、以前幹事をした際、「支払額の男女差が少ない」「女性はそれほど食べない」と声高に主張され、閉口した事が有りました。

食べる量云々と言っても、私などは大皿から積極的に採らないし、最後に残ったものを平らげたりしているし、それを声高に主張していた人よりは確実に食べていません。
ビールは飲んでいますが、「飲み放題」にしていれば額に反映しておりません。

食べる量で支払額を変えるならば、むしろ私こそそれを主張しても良いのでは?とも思います。
もちろん、そんな恥知らずな事は口にしません。
その時も女性の額を下げて、その分は私が持ちました。

食べる量云々というのも要するに個人差であり、それを大雑把に男女で分けるのは、許容範囲か範囲外かはともかく、それこそ一種の性差別とも言えるかもしれません。

このように、性差別とはその境界が難しいと思うのですが、ここに対して人よりシビアに主張する人は、願わくば飲み会でも「私は同額払う」と主張して欲しいと思います。

それは、例えば原発廃止を主張するからには、人より節電に積極的であるべきと思いますが、それと同じように、意見を主張するのに責任が伴う事も有るという事です。

原発賛成、反対ともにそれぞれ根拠は有るでしょう。
個人の節電など微々たる量かもしれませんが、原発廃止を叫ぶ人が、節電に対してルーズだと、「お前がそれを言えるのか?」と感じるのも道理です。

なんにしても、「制度」で行うのではなく、「教育、躾」の中でそうした事を自然に考えられるようにしていければ…と思いますが…

あと、愛情と躾を両立出来ない親が増えているのかもしれません。

身の処し方が難しい世の中になってきました(^^;)))

写真はまたまた関係有りません。
随分前ですが、勤務先から赤坂まで歩いた際、内堀通りから見た紅葉越しの東京都近代美術工芸館、永田町辺りの夜景です。
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