「霊岸」
字面から見ると、「彼岸」を連想してしまいますが、実は東京に有る島の名称「霊岸島(れいがんじま)」です。
と言っても、伊豆七島のような島嶼部ではなく、二十三区に有る人工島…要するに埋立地なのですが、一応川によって隔てられており、橋で繋がっています。
その繋がった先も平らな埋立地ですから、主観的には川を渡ったという程度で、島というイメージは有りません。
東京メトロ東西線の門前仲町駅と茅場町駅の間、ほぼ台形の中央区新川という地名がその場所です。
「霊の岸」とは何やら曰く有りそうな名前ですが、江戸時代にこの地に有った霊厳寺に由来しているのだとか。
その霊厳寺は明歴の大火で消失して江東区白河へ移転。
今では霊岸橋、霊岸島交差点にその名の片鱗を残す程度だそう。
ところで、以前「北斗の拳外伝」が連載されていたコミックバンチという雑誌が有り、そこに載っていた「ストレイジ」という作品
https://www.comicbunch.com/viewer/manga/storage/
東京オリンピックを控えた時期(正に今ごろ!)、東京の霊眼島が舞台となる話です。
霊岸島と聞いて、私はこの霊眼島を思い出しました。
浦賀水道を除き、現在の東京湾は、大半が人工的な海岸ですが、元々の陸地から連続的に埋め立てているばかりではなく、河口に流路を隔てて埋め立た人工島もたくさん有ります。
現在は外枠となる護岸をつくる為に、50mもの鋼管を隙間無く海底に埋め込んでいくのだそうですが、江戸時代にそんな事まで出来たと思えませんし、当時の埋め立てにはかなりの困難が有った事でしょう。
そして、先だって入手したこの本…
東京湾に多数存在する人工島について書かれた本です。
この本で霊岸島の事を知りました。
その中にこんな一文が有ります。
(前略)杉浦日向子は著書「お江戸風流さんぽ道」でこのように書いている。
「今も残る霊岸島は、江戸後期に埋め立てられた島ですが、当時は蒟蒻のようにふにゃふにゃした土地で、通称こんにゃく島と呼ばれていました。
この地も、埋め立てられた後、桜を植え、遊郭を作り、江戸っ子たちの足によって堅固になった島なのです。」
そんな霊岸島を散策してみました。
茅場町駅を下りて東へ向かうと、すぐに霊岸橋が有ります。
出来るだけ外周を歩いてみたかったので、橋を渡ってすぐに左折。
湊橋の道を越えて、下町風の通りを進んで行くと、すぐ北側の日本橋川と対岸の箱崎が見えています。
数分で左手に豊海橋が現れました。
私の記憶に残っている、昔の新大橋のようなクラシックな橋です。
ここで最初の一辺は終わり、右へ曲がるとすぐに永代橋が有ります。
やはりクラシックで良い味を出しています。
そうなんだ…
永代橋通りを渡ると、公園として整備された河岸となっていました。
遊覧船?水上バス?がやってきました。
隅田川の対岸には江東区永代、そして大横川を挟んで越中島、更に中央大橋の向こうは佃島。
佃島もタワーマンションが林立する人工島ですが、今では月島に飲み込まれたかの如く、佃島ではなく「佃」という地名になっています。
因みに、かつてWARで冬木に敗れた嵐が荒谷や北原と共に、隅田川三兄弟として隅田川ダイブをしたのは中央大橋でした。
中央大橋の隣には「メッセンジャー」の像。
何故か、説明板が設置されている橋の側に背中を向けています。
中央大橋を潜ったすぐ先で二辺目も終わり。
こうして対岸=中央区湊辺りを見ると、なんだか軍艦島のよう。
再び右折すると、公園もこの先で突き当たり、少し内側の道路=リバー通りを歩きます。
南高橋もなかなか良い雰囲気でした。
高橋は、普通の道路橋という感じか。
ここを渡ると、京葉線八丁堀駅です。
すぐに亀島橋の袂で八重洲通りに出ました。
真っ直ぐ行けば東京駅です。
ここで三辺目も終わり。
また右折です。
ここには霊岸島防災センターが有りました。
そこの表札?には新川二丁目霊一会館とも…
明正通りと交差する霊岸島交差点、そして特に名称は表示されていませんが、また橋が有ります。
対岸に新亀島橋児童遊園というのが有るようなので、おそらくそれが橋の名称なのでしょう。
また裏道に入って行くと、霊岸橋の袂に戻りました。
かなりノンビリ一周しましたが、それでも40分弱。
という事で島旅はあっと言う間に終わり。
ビジネス街の表通りと、下町風な裏道、今風なリバーサイドが混在する島でした。
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