せいぜい海抜数十m程ですから、「天空」というには少々大袈裟ですが、去る土曜日は佐倉市の城跡を歩いてきました。
…の前に皮膚科に行き、北習志野から東葉高速(運賃が高くて有名!)で勝田台、そして京成に乗り換えて向かったのは大佐倉(おおさくら)駅。
ずいぶん昔に佐倉朝日健康マラソンで、この駅の周りも走ったのを記憶しています。
この辺りの中心であるお隣佐倉駅と比べると、かなりローカル色が濃くなりますが、近くには、かつて千葉氏の一派が築いた本佐倉(もとさくら)城址が有るのです。
一時期、古河公方足利成氏がいた事も有るのだそう。
駅から数分歩くと、すっかり水田と里山の風景です。
水田を覗くと、二期作している?のかよく分かりませんが、まだ収穫されていなさそうな田も有りました。
そして、この水田の右手の里山…に見えるのが、本佐倉城城址です。
坂を登って行くと、左に分岐が有り、堀切となっていました。
ここから回り込んだとこが城山です。
戦国時代には北条の家臣となりましたが、小田原で北条が滅んだ際、こちらも廃城となりました。
建物などは残っていませんが、地形は当時の面影を残しています。
それにしても、ポカポカと気持ち良い。。。
一通り歩き回り、大佐倉駅へ戻りました。
次に下りた駅は宗吾参道駅。
こちらは城跡ではないですが、実はまだ行った事が無い宗吾霊堂へ行ってみたのです。
余談ですが、子供の頃、宗吾「れいどう」というお寺が有ると聞いたのに、駅が宗吾「さんどう」、「れいどう」と「さんどう」のどっちが正しいの?といった事を、親に聞いた覚えが有ります。
と言って、行った事は無い筈なので、例えば成田山行った時などに、駅名見て聞いたのでしょうか。
余談終わり
あまり人はいなかったのですが、浄財箱と言うかお賽銭箱から中身を回収しているところを見てしまいました(^^;)))
回収中なので、端っこの方にチャリン!
再び駅に戻って、今度は臼井(うすい)駅です。
また余談ですが、京成では「うすい」と平仮名で表示されています。
これは、同じように都営浅草線に乗り入れている北総線に白井(しろい)駅が有り、これとの間違いを防ぐ為だとか。
ならば、こちらも「しろい」と平仮名にすべきと思いますが…?
再び余談終わり
さて臼井駅から向かったのは臼井城。
最近、広く知られるようになった、上杉謙信の負け戦「臼井城の戦い」の舞台です。
関東管領として関東諸将を率いていたにもかかわらず、決して大きな城でもない臼井城を落城させられなかった訳ですが、それ自体は局地戦であり、攻めきらずに撤退しただけとも言えるかもしれません。
言わば戦術的敗戦ですが、もっと重要な事は、関東諸将が謙信に従わなくなったという事です。
越後の大名である上杉謙信が関東の戦いに乗り出してきたのは、山内上杉憲政より関東管領の地位を譲られた事によります。
教科書でも大河ドラマでも、戦国時代と言えば織田〜豊臣〜徳川と、上杉武田伊達くらいで、関東などはほぼ無視ですが、むしろ畿内より長い戦乱がずっと続いていました。
その主役は鎌倉公方と関東管領上杉氏だったのが、上杉氏も山内上杉と扇谷上杉に分かれて争うように。
そこを押し退けて台頭してきたのが北条であり、小弓公方であり、里見、佐竹ら諸将です。
そうした中で越後の長尾景虎が、北条に追われた山内上杉氏より「上杉」の家と関東管領の地位を譲られ、山内上杉に代わり関東平定に乗り出した…という流れです。
下総を
駆けたもののふ
栄光の
臼井の城を
高く望まん
最後の「高く望まん」には、臼井氏は千葉氏の一族、つまりは房総平氏であり、桓武平氏の祖「高望王」に掛けてみました。
先の本佐倉城と異なり、臼井城は城址公園として整備されていました。
坂を登って行くと、本丸の跡が展望台となっていました。
ここからは印旛沼を望む事が出来ます。
印旛沼の対岸には、師戸城というのも有ったらしいのですが、時間の関係で、そちらは行きません。
土橋を渡り二ノ丸へ。
この辺りを歩いていると、「雷電の碑」の指導標が有りました。
そう言えば、近くに有ると聞いた覚えが!
雷電とは、男塾三面拳の雷電ではなく、江戸時代の有名力士です。
私が子供の頃に見ていたアニメ「勇者ライディーン」の名前も、この雷電から来ているとか。
何はともあれ行ってみました。
私も手が大きい方ですが、二回りほど大きいようです。
ここまで見たところで引き上げました。
帰路は実籾駅から、初めてのルートで歩いてみました。
うねりながら台地に登るのですが、この辺り現在は文教地区となっていますが、かつては軍用地が広がっていたよう。
そして、毒ガス貯蔵が行われていたとも…
なかなか曰く有る場所のようです。
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