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2021年03月01日06:30

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笹川諒歌集『水の聖歌隊』

書肆侃侃房、2021年2月刊。

笹川諒さんが「短歌人」誌に発表してきた作品の何首かをこれまでこの「日記」で引いたことがあるが(直近は1月17日の「印象に残った歌の記録(33)」)、その笹川さんの第1歌集。1月17日の記事のコメント欄の文さんへのリプライにて、「彼は詩人ですね」と僕は書いたが、短歌という詩型はこのようにして〈詩〉であり得る、という方位へ最大限ウイングを伸ばして紡がれた作品群である。

りんごの味を言葉で説明するのが難しいように、笹川さんの作品の良さを言葉で説明するのは難しい。吉本隆明のタームで言えば「指示表出」のベクトルは極力抑えられ、意識上の明示的な「意味」が伝わりにくいかたちで言葉が斡旋されている歌が多いのである。しかもそれは観念による斡旋ではなく、感性による斡旋と言うのがふさわしいように思われるのだ。

短歌人東京歌会のように、席順で一首ずつ歌評が当たるような場で笹川さんの作品の評が当たったら、「これはなんだか難しい歌が当たってしまいましたねえ」とか言って、なんとかその歌の解釈と感想を言葉にしようとするだろうが、その言葉と作品の言葉とはうまく接続しないのではないか。この歌集を読んでそんな感想を抱いた。

形式的に言えば口語新仮名の歌群である。だが、かつて僕が若干の違和感を籠めて「口語つぶやき体」と名付けたようなものと笹川さんの歌とは、相当にモードが違う。常用する言葉をそのまま定型に嵌めたり、若干の短歌仕様を施して定型にしてみた、という作品ではない。「口語つぶやき体」は自由詩へ行きたがっているものが多いように思われたのだが、笹川さんの歌は五七五七七にしっとりと収まっていて、自由詩へ行く気配はない。こんなふうに言えば、りんごの味が多少は伝わるだろうか。

「短歌人」2017年4月号の時評(「言葉という悲哀」)で、「絵画でも音楽でも舞踏でもなく、言葉による表現を選んだからには、ひとたびは言葉を疑い、言葉を悲しむような境地へ思索をめぐらしてもよいのではないだろうか」と僕は書いたが[*]、笹川さんは言葉を悲しむひとに違いない、ということもその作品群から伝わってきた。
[*]https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1959486508&owner_id=20556102

以下、『水の聖歌隊』より「言葉」をめぐる思索が感じられる歌10首、ご紹介します。

増やしてもよければ言葉そのもののような季節があとひとつ要る

青いコップ 冷たいことを知りながら触れるとひとつ言葉は消える

こころが言葉を、言葉がこころを(わからない)楽器のにおいがする春の雨

水を撒くきみを見ながら知ることが減ることだとは思わずにおく

噴水よ(人が言葉を選ぶときこぼれる言葉たち)泣かないで

詩を書けば詩人であると思うとき遠くアルコールランプのにおい

生まれたての言葉を持てあますときのきみの日傘は音楽めいて

物語はいつも大きく目に見えず喪服といえば喪服の少女

雨、そしてクリシェを避けてたどり着く画廊は長い手紙の代わり

書かなければ消えてたはずのさびしさに手綱を脆くても付けておく


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