暗き部屋のランプがふいに点りたりこはれたのだと母は処したり
高澤志帆「夏のはじまり夏のをはり」30首(第65回短歌人賞受賞作品、「短歌人」2020.1)の27首目。
概して穏やかなトーンの歌が並ぶ一連だが、その中で一読「おっ!」と思ったのがこの歌だ。ひとつ前の26首目は〈母が作る胡瓜の馬と茄子の牛仏間からはつか匂ふ寝際に〉、ひとつ後の28首目は〈盆の月の終はりの日に焚く送り火の刹那燃え上がり後ずさりたり〉。26首目〜28首目の3首が、夏のをはりの盆のシーンである。
その盆の夜に暗い部屋のランプがふいに点った。これは何かご先祖さまの霊が…という方へ思いが行くところ、母は、ランプがこわれたのだということにした。もちろん、母もこれはもしや…と思ってはいるのだが、そちらへ入り込むとやっかいなことになるやも知れぬという咄嗟の判断をなしたのだろう。
「処したり」という語の選択が巧い。捌くとか計らうとかいう意味合いの語だ。理が介在して適切に対応した。ランプがこわれたのね、と母はわざと声に出して言ったのかも知れない。帰ってきたよと知らせたかった霊は、あれま、感づいてもらえなかったよ、とてその後はおとなしくしていたのだろう。それでも帰り際にちょっと挨拶をした、というのが次の28首目なのだろう。
まだ盆の本義が残っている地でこその出来事である。僕の実家などは迎え火も送り火も焚かず、お寺の墓地で和尚さんが回ってくるのを「いやあ、お久しぶりです、一年に一度ここで会いますね」などと隣近所談笑しつつ待つのみである。
以下志帆さんの歌から離れるが、その昔こんなことがあったのを思い出した。
当時の勤務先の出張業務でイギリスの某カレッジに3週間ほど滞在したことがあった。かつて病院だった建物をカレッジに改造したのだそうで、寮の学生たちは夜になると幽霊が出る、と言っていた。なるほど病院には表の出口に加えて、霊安室という裏のもうひとつの出口がある。そこから出て行った者の中で何か未練の残る者がカレッジに改装された後にも残留していたのかも知れない。
出張1日目の夜、あてがわれた宿泊室でベッドに入ってうとうとしていたら、突然部屋の電灯が明滅し始めた。おや、おいでになったのかな? と思ったが、わたくしを相手にしないように、と思って、電灯のスイッチをチェックして、故障かなあ? などとつぶやいてみた。
あれま、こやつ怖がらない、とて諦めたらしい。以後はなにごともなかった。
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