２０１９年８月号より。
本を読むわれは後ろで笑ひたる彼のまはりをさまよつてゐる 高澤志帆
…現在形で詠まれているが、あるいは学生だった頃の回想の歌、場面は学校の図書館だろうか、などと想像した。気になる彼が、本を読んでいるわれの後ろで笑っていた、その声が聞こえたのだがその後彼はどうしているのだろう、書棚で本を探しているのだろうか、何処かの席に座ったのだろうか、というふうに彼のまわりをわが思いはさまよってしまって、読んでいる本の中身が頭に入ってこない。でも、ほかの誰でもないあの彼なんだから、気にするな、などというのは無理なんだよね。というホロ苦い青春詠と思って読んだが、あるいはつい最近のことを詠まれたのかも知れない。としたら、読者はいっそうキュン！としてしまいそうだ。
通路壁のむかふはつかな音はしてしづかな獣ゐるけはひする 川井怜子
…なんだか不気味な歌である。通路壁とは何だろう、われら過去から未来へ移動しつつあれば、その現在は常に通路上にあるのか。世界はその通路の壁に隔てられていて外界は見えない。が、壁の向こうでは何やら音がしていて静かな獣がいる気配がする。この世界がもたらす不安感を一首全体暗喩として詠まれた歌だろうか。と思うと次の歌は「昼は吠えぬしづかな獣解き放たれむ 駅の工事は夜をはたらく」。なあんだ、そういうことだったのかと種明かしされるのだが、あえて種明かしなしでこの一首だけを独立した作品として読むのが良いのではないかと思った。「気配」を「けはひ」と旧仮名で書くと、それだけでぞくっとしてしまう。なお、「むかふ」は「向こう」という名詞の旧仮名表記で、いつだったかこの日記に書いたことがあったが、「むかう」と書くという説と「むかふ」と書くという説とがある。アララギでは「むかう」が正しいと教育したのだそうで、時に歌会で「むかふ」は間違いだと頑として主張されるお方が現れたりすることもある。
ポケモンとサッカーと仮面ライダーと空中殺法と算数と虫 鑓水青子
…名詞六つをシンプルに「と」で繋げたというだけの作りなのだが、その名詞の選択が巧みで（特に五つ目の「算数」が意外で）この六つの名詞から小学生ぐらいの男の子の像がおのずと見えてくる。あるいはこういう詠み方の先行作があるのかも知れないが、僕は初めて見たような気がして、この手があったか！と思ったのだった。この一首によってこの詠み方には鑓水印が付いてしまったので、もはや真似することはできない。その意外な「算数」については、後の方に「算数なら勉強する子は算数しか勉強せぬまま学期終わりぬ」という歌がある。算数以外は嫌いというのは、ピーマン以外は嫌いというのと同じくらいユニークなことだろう。鑓水さんのブログに《学校なんか行かないでさ、お母ちゃんといっしょに遊んで過ごそうよ。って声をかけても、「おれ、学校すきだからな。学校行くぜ」って。つまんないの。仕方がないから、ひとりで遊んでいるさ》と書かれていたことがあったのを思い出した（＊）。うーむ。この母にしてこの子ありか。などと言い出すと歌評からは話が外れてしまうが…
（＊）
http://yarimizuseiko.jugem.jp/?eid=477
下車前途無効の切符手に持ちて巻向駅に降り立ちて、さて たかだ牛道
…一読場面が想像されてウフッとしてしまった。巻向（まきむく）駅はＪＲ桜井線の奈良・桜井間の駅のひとつ。あのあたりは山の辺の道に並行して線路が通っていて、いかにもローカル線といった感じののどかな駅だった、と思い出す。されば下車前途無効と書かれた切符ではあるが、勝手に下車前途有効にしてしまうことができる。ウィキペディア「巻向駅」の項によれば、無人駅で、ＩＣカード読取機はあるが普通乗車券用の自動改札機は設置されていないとのこと。たぶん、乗車券はこちらへなどと書かれた箱ぐらいはあるのだろうが、駅員さんもいないし、ちょっと失敬とて切符を持ったまま出場しても咎める者もいないわけである。ふらりと降り立ってみた巻向駅、さて近くに名所旧跡などはあるのだろうか、あるいは少し歩くが山の辺の道まで行ってみようか…などとしばしぼんやりと考えている。プランなき旅の醍醐味ここにあり、という一首だ。結句、読点を置いて「さて」と言いさしたのが上手い。
庭にくる蝶は雀に砂浴びの雀は鴉に 庭はさみどり 諸岡史子
…「雀に」「鴉に」の後の動詞、同じ動詞が来るのだろうがそれが省略されている。が、「蝶は雀に」「雀は鴉に」という関係から、ああ、やられてしまうんだな、と一読わかる。ひとつ前に「目交ひを鴉が雀を銜へ去る夕日傾く静かの庭に」という歌があるので、その続きとして読めばおのずと了解されるのだが、この一首だけ独立した作品として読んだ方が“ワザあり”感が増すのではないだろうか。一字アケて結句は「庭はさみどり」。斯くて世はこともなし、という感覚だろう。庭のさみどりという自然を愛でるなら、「蝶は雀に」「雀は鴉に」も愛づべし、という一抹のイロニーを伴ったメッセージも背後から聞こえてくるように感じられる。
対象化されし労苦が荒川を渡りてゆきぬ涼風のごと 針谷哲純
…「移動」７首の５首目。ひとつ前の４首目は「わが意志のこびりつきたるモノたちの場所の移動を引越屋（サカイ）に託す」。というわけで移動とはつまり引越しなのだが、「対象化」（すなわち労働過程）とか「場所の移動」（すなわち交通関係）とかいうのは三浦つとむが愛用した語であった。針谷さんは滝村隆一の国家論を読むお方なので、当然三浦つとむも愛読されたことがあったのだろう。詩語とは相当に隔たりのある語をあえて使って妙味が醸し出されている作品である。それとともに、「移動」という語からは「革命にあらず、移動なり」という北村透谷の言（＊）も想起されて、それが隠し味のようにして一連の通奏底音をなしているようにも思われてくる。
（＊）
https://www.aozora.gr.jp/cards/000157/files/46555_28824.html
思想なきゆえに伸びゆくタンポポの花を引き抜くわが庭仕事 森田直也
…タンポポの花を引き抜くのは、無碍に絮が飛んでやたら殖えてしまったりしないように、という作業なのだろうか。僕は庭仕事の経験がない（というか、そもそも庭のある家に住んだことがない）のでよくわからないが、そんなふうに想像してみた。いろいろ理屈は付いても、やはり咲いている花を引き抜くというのは何ほどか罪の意識が伴う作業だろう。ごめんなさいねとひそかに言えばよさそうなところ、いや、こいつらときたら思想がないのでやたら伸びるんだ、少しはものを考えるんだったらいろいろと悩んでやたら伸びたりはしないだろうに、ほんとうにしょうもないやつらだぜ、と強がって見せている一首。タンポポに思想あらずと断言すホモサピエンスなかんづく男、などとタンポポは詠んでいるかも知れない。
【最近の日記】
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