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2017年07月09日08:36

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五七五七七というコスプレ

角川「短歌」2017年7月号の歌壇時評、山田航「もはや抗えないもの」を読んで、「そうかなあ?」と思った。

文語旧かなの短歌は、特に時事詠・社会詠の場合、題材を扱う真摯さが減じられてしまうと言い、それでも非リアリズムの歌なら文語旧かなは「言葉のコスプレ」として許容されると言う。ぶっちゃけて言ってしまえば、文語旧かなはもう古いよ、今の時代には合ってないよ、口語新かなの歌が今の時代にマッチしてるんだよ、と、まあそういうことを言いたいらしい。詳しくは山田の文章に当たってください。

山田の思考のベースには次のような判断があるようだ。

[以下引用]

戦後から長い時間も経ち、「戦後レジームからの押し付け」であったともいえる口語新かなも十分に体系化され、成熟と変貌を遂げた。もはや文語旧かなは、いかんともしがたい忘却とともに思想としての体系を保つことができなくなってしまった。だから、現実社会を描く方法論としてもはや文語も旧かなも適していない。

[引用終り]

大事なことをこんなに乱暴に言ってしまっていいのだろうか。口語新かなの体系化と成熟と変貌について、文語旧かなの思想としての体系について、せめて何かひとことふたこと言ってほしいところだ。乱暴な断定は読者を置き去りにしてしまう。

思えば8年前の歌人協会の講座で斉藤斎藤や東直子は、文語にはない口語短歌の良さについて語っていた。口語短歌をいくら読んでもお腹いっぱいにならないと語った小池光の発言ののち、いや、そうではなくて…、という論脈だったと思う。[下記記事の後半をご参照ください。]

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1141587141&owner_id=20556102

この8年間に時代は山田の言うように大きく様変わりして、文語旧かなはもはや忘却される位置へと退いたのだろうか。そのような大転換の時期に立ち会ったというふうには僕は思わない。今も、8年前の論議の問題設定は引き続きそのまま存在しているだろう、と思う。

逆に山田に問いたくなるのは次のようなことだ。引かれている目黒哲朗の作品は、その題材を最も良く活かすためには短歌という表現方法が最適だったのか。散文詩やエッセイなどのかたちで表現する方がいっそう真摯さが伝わったのに…、というようなことはないのだろうか。また、後段で引かれている平井弘の発言からして、戦死した兄の声を聞きとって表現するのなら短歌以外の方法による方がふさわしかったのか、否か。歌人なのだから短歌という表現をとることは前提であろう、とこの場面で言ってはいけない。もっと広くて大きなことを山田は問おうとしているのだから。

山田は文語旧かなは「言葉のコスプレ」だと言うが、それを言うなら、そもそも五七五七七という定型に言葉を乗せている時点で、間違いなくコスプレだろう。同様に、俳句も詩もコスプレだろう。普段着の言葉ではないことはたしかなのだから。それを、いきなり短歌というジャンル内の文語旧かなと口語新かなの間で「コスプレ」か否かの線引きをしようというのは、いささか了見が狭いのではないか。

文語旧かなを採用している限り「マイナーポエットから脱却することは出来ない」と山田は言うが、はて、「メジャーポエット」というものがあるのだろうか。マイナーであることは詩の本質規定だろう。そうだとすれば「戦後レジームからの…」云々をそのままなしくずしに受け容れること自体が、はたして詩にふさわしいことなのか? というところからして再考されて良いのではないだろうか。

〈追記〉後続記事「20代、30代の俳人」(8月3日)もあわせてごらんください。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1961876751&owner_id=20556102


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