mixiユーザー(id:19565687)

2016年10月16日23:06

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恐らく

本来はWEBニュースやWEBのコラムサイトも紙媒体と同じように「校閲」を設けるべきだと思うんですね

些細なとこでは例えば商標をメーカーのガイドラインに従わずにコラムを書いているライターがいたりしますね

3Mガイドライン
http://www.mmm.co.jp/identity/Elements/Trademark/Guidelines/

ネットメディア誤報(ビジネスジャーナル)
http://mainichi.jp/articles/20160919/k00/00e/040/154000c

これは投稿された社外ライターのNG文章を見抜けなかった編集長が記事だかコラムを安易に採用し掲載したということだったとおもいますけども…
ここら辺を見ればネットメディアの取材能力、裏付けチェックがまだまだないのだと見て取れます

そして、平気で誤字脱字、素人並の妙な文章が直されずにWEB上に掲載されているコラムや記事をみるたびに、このサイトは「校閲」の部署をもってないんだなと判断していますし、編集長も無能なんだなと判断しています。

こんなコラムがありました

紙とネット、校閲力の差はまだまだ
http://blogos.com/article/81895/

先日、BLOGOS編集部の依頼で、都知事選のネット選挙を振り返る対談企画に参加してきた。うさみんが衝撃的な発表をしているので、本編は公開後にお楽しみに。。。と予告はこれくらいにして、うさみんや編集部の方々から、「ネットメディアへのダメ出し」「新聞等の既存メディアの内輪話」をもっと書いてほしいと要望があった。

●ネットは編集者を雇うのも大変
まー、確かにブログ論壇界隈では「マスゴミの報道はなっちょらん!」的な既存メディアへの悪口を書く方がPV伸びるんだろうけど、この1年余り、有名なネットメディアのスタッフの皆さん方とも本業や自分の言論活動のことで色々やり取りさせていただいて、業界的な課題が見えてきたことも事実だ。というわけで、ご要望にお応えして早速指摘してみよう。

一番わかりやすいのは、編集スタッフの「校閲力」ですね。そもそもネットメディアの場合、執筆者の投稿をそのまま掲載する媒体もあるけど、編集者が介在しているところ自体が少数派だ。よほど過激な表現を丸く書き直したり、明らかに事実誤認を修正する程度はあっても、大幅に改稿することは稀だ。これは編集スタッフが少数という物理的な理由もあって、大手であるBLOGOS編集部ですらもバイトを含めて数人体制で日々回している。ハフィントンポストも確か8人体制だったはずだが、現場取材の記者等を除くとエディターは2人とかじゃないかな。つまり1つの原稿を面倒みるのに注力できる時間が極めて限られる。文章を大枠で直す編集者ですら、そういうじり貧の体制でやっているのだから、新聞や中堅以上の出版社のように校閲専門のスタッフを置くことは困難になるのは自明の理だ。

●校閲スタッフの凄さ
最近は新聞どころか、雑誌も読まないブログ読者が多いようなので、校閲スタッフの凄さを紹介しておこう。校閲というと、誤字や脱字を探す人という程度の認識しか持っていないかもしれないが、その程度の作業しかやらないのであれば、ワードの「校正」機能といった機械的な対処で済ませばいいし、活字好きで間違い探しの得意なアルバイトの学生や主婦でもやれてしまう。新聞社や老舗出版社で働く「プロ」の校閲記者は違う。漢字検定1級保持といった校正上、必要な知識がずば抜けているだけではなく、リサーチャーとしての能力が現場記者に匹敵する。

もちろん、リサーチと言っても机上でのことに限られるが、文献、過去の記事、ネット上の公開情報等々、身の回りで可能なあらゆる資料を徹底的に当たって確認する。先月、ネット上で新潮社の小説の校閲の凄さが話題になっていたが、あれは小説で描写される日付の実際の月齢と照合していた(詳しくはまとめサイトをご参照)。

●校閲に記者生命を救われた筆者の体験
私自身も新聞社時代、校閲の皆さんには何百回と危いところを助けていたただいた。たとえばスポーツ記事は、数字が頻出するほど説得力を増す。高校野球の記事で「2日の連投にもめげずに好投したエースの田中君」と書くのと、「前日までの2日間で276球を投げていたが、それでも田中君は好投した」と言うのでは伝わる重みが違う。それで記者は数字を多用したくなるのだが、甲子園で予選から決勝まで何試合も一人で投げた投手の球数を全部計算し、それも締切の限られたドタバタの中で文章の構成も思案する“片手間”でやるとミスするリスクもある。こういう時、校閲記者は試合の記録を一通り計算して、ちゃんと裏取りする。

事実関係のチェックも半端ではない。あれはいま思い出しても本当に恥ずかしいが、記者4年目のことだったろうか。八王子支局に勤務していたとき、週末の街のイベント記事で、地元のお寺の行事をサクッと取材して原稿を早々に書き上げた。事件も起きそうになく夜勤当番でもなかったので早く帰ろうとしたところ、支局のデスク(原稿を直す人)を務めていた先輩記者に本社の校閲記者から“ご注進”の電話が。何年か前の記事と照合したところ、いま貰った記事にある行事の趣旨が違っているのではないか?というのだ。うひー(汗)。まだ20代の若造で休日出勤でタガが緩んでいたんですね。不幸中の幸い、平日にデスクを務める怖い鬼デスクじゃなかったので優しくたしなめられて、電話で再取材。書き直して事なきを得たが、校閲のスクリーニングの凄さを実感した出来事だった。

●メディア流動化で校閲の運命は?
もちろん、ネットメディアだってリソースに余裕があれば校閲専門のスタッフを配置したいはず。誤字脱字を減らす品質管理だけでなく、オフィスの中でも出来るかぎりの裏取りを経た記事が信頼向上につながり、媒体の価値を上げていくというものだ。先日、ハフィントンポスト発で「アンネの日記」を破られる事件がスクープされたが、ネットメディアの社会的影響力が今後も増すことを考えると、広告収入のアップ等で、そういう校閲スキルの高い編集スタッフを雇えないか真剣に模索する段階のようにも思える。

しかし、その一方で紙媒体でも、校閲スタッフは編集部のなかでも、経費削減の折にはリストラの対象にもなりやすい。新聞社も、地方版はかなり昔の段階で首都圏を除いて専従スタッフは置かなくなり、支局のデスク、記者たちが自力で校閲している(その分、若い記者がいい加減な記事を書いて訂正が増えるリスクは高い)。新聞業界の不況に出口がみえない中、近年は整理・編成部門(レイアウト担当)を分社化するような動きもあって、それなりの待遇に裏付けられた編集責任を持つ校閲スタッフを維持できるか雲行きが怪しくなっている。印刷後に訂正が効かない紙媒体のプレッシャーのもとで鍛えられた校閲人材が、ネット媒体でも登用されるのかどうか。紙、ネットを問わず、記事のクオリティー、媒体の信頼性を占う上で、注目していきたいと思う。

あー、また長くなってしまった。では、そんなところで。ちゃおー(^-^ゞ
新田 哲史
Q branch
広報コンサルタント/コラムニスト




上記の中からWEBニュースを抜き出してみましょう

ネットメディアの場合、執筆者の投稿をそのまま掲載する媒体もあるけど、編集者が介在しているところ自体が少数派だ。よほど過激な表現を丸く書き直したり、明らかに事実誤認を修正する程度はあっても、大幅に改稿することは稀だ。これは編集スタッフが少数という物理的な理由もあって、大手であるBLOGOS編集部ですらもバイトを含めて数人体制で日々回している。ハフィントンポストも確か8人体制だったはずだが、現場取材の記者等を除くとエディターは2人とかじゃないかな。つまり1つの原稿を面倒みるのに注力できる時間が極めて限られる。文章を大枠で直す編集者ですら、そういうじり貧の体制でやっているのだから、新聞や中堅以上の出版社のように校閲専門のスタッフを置くことは困難になるのは自明の理だ。


少人数だから小回りが効く、レスポンスは高いとは思うんです
しがらみもないぶん色んな事を書けるってのはあるとおもうんです

しかし、だからといって人がいない事が原因で、誤報を書いたり誤字脱字を掲載したり、裏取りをしないで掲載していいってものではないはずです

これは校閲だけでなく、編集長、編集者の能力不足…無能が原因だと思うんです

以前、とあるコラムサイトのコラムで明らかに問題のある記述があって、そのコラムの下にコラム閲覧者が書込みが出来るようになっていたので、具体的なURLを示しつつ間違っているのではないか、文面の訂正が必要では無いかとの旨書いて置いて、書込が反映され表示されたのを確認shました、そして1時間後にはさっくり消されていました
まぁ、気紛れで指摘しただけですので別に消されて無視されても何にも思いませんでしたけども

その程度の対応しかとれないんだなと思ったものです

文筆業でありながら文章で応戦することもせづ、消しておしまい、臭いものには蓋ではあまりにも情け無い気もしますけども

まぁ、これは別に色々な見方もあるのですが、誤字脱字を見逃すようでは文筆業の恥だとは思いますね。

WEBニュースやWEBコラムサイトは校閲の部署くらいは置いたほうがいいと思いますよね


ところでこんなTweetがあります

毎日新聞・校閲グループ
https://twitter.com/mainichi_kotoba


地味というより本当にスゴイ!校閲さんの実際のお仕事
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=125&from=diary&id=4243999


「編集者の不在」がネット記事の信頼を失墜させた
http://diamond.jp/articles/-/73840

インターネットメディアという業界では、何百、何千という編集者やライターが仕事に関わっています。しかし、誰もが情報発信者になれる「ソーシャルの時代」と、それを支え人間の代わりに機械が価値判断を下す「テクノロジーの時代」において、いつまで自分たちが安泰でいられるのかとヒヤヒヤしている編集者も多いはずです。実際、すでに職や役割を失った、あるいはこれから失う編集者やライターは少なくないでしょう。

 新聞やテレビというのは、巨大な装置産業で、大きな資本がないと参入できない業界です。そのため、新聞社やテレビ局など伝統的なメディアに勤める“伝統的な記者”の数は、自然と限られてきました。しかし、インターネットが普及した現在、大きな資本や特別な技術力を持たない個人であっても自ら文章を書いたり、人の書いた文章をまとめて発表したりできる「誰もが情報発信ができる時代」になりました。

 引き金を引いたのは、言うまでもなくブログの出現です。2003年より後に起きたブログブームにより、新聞や雑誌の力を借りなくても、自分たちの力で意見表明できるようになりました。いまは、ブロガーという言葉を昔ほど聞きませんが、ブログという仕組み(たとえばWordPress)は、商用メディアにも転用され、コンテンツの流通か生産かを問わず、ネットメディアの数を爆発的に増やしました。それに比例するように、次々とライターや編集者が登場。いまではそこに一種の供給過剰とスキル格差の拡大が生じています。

編集者に求められてきた5つの仕事

 コンテンツプロバイダーである「生産サイド」のメディアと記事をキュレーションする「流通サイド」のメディア、それぞれに編集者と呼ばれる人たちが日々働いているわけですが、編集という仕事は、おおよそ次の5つに分けることができます。(1)取材(2)執筆(3)編集(4)校正・校閲(5)編成の5つです。

 ネットメディア全体を俯瞰した場合に、生産サイドの編集者は、(1)から(4)を、流通サイドの編集者は(3)から(5)に携わることが多いはずです。ただ(4)の校正・校閲は、ネット専業メディアにおいて専門的な人員を配置することは稀です(というか聞いたことがありません)。

 少し番外的に説明を加えておくと、校正・校閲という仕事は地味ですが、実は重要な役割を担っています。校正というのは「シュミレーション」と「シミュレーション」のような表記の勘違いや誤字脱字を修正します。一方の校閲は、事実関係を検証する役割です。たとえば「日本の若者の自殺率は世界一高い」という表記があったとした場合、「ホントかよ?」と疑問を挟んで、編集者や筆者に修正を提示します。

 つまり、校閲とは、記事の間違いを絶対に許さない「門番」のような役割なのですが、(3)の編集が兼務することが多くなっています。伝統ある新聞社でも「支局校閲」などといって、校閲を専門とする本社の校閲記者ではなく、地方支局にいる一般の記者らに校正や校閲をさせる例が少なくありません。

では、流通サイドの編集者に求められるスキルから見てみましょう。私は、ヤフー・トピックスが流通サイドの編集の元祖だと思っているのですが(それ自体はどうでもいいことですが)、そこに勤める編集者の仕事は、一日4000本もの記事のなかから、どれが大切な記事かを判断し、伝えるべきニュースや伝えたいニュースを選び、優先順位を付けることです。この流れを分解すると次のようになります。

・価値ある記事をピックアップする
・関連するサイトを集めてきてまとめる
・13文字の見出しをつける
・硬軟バランスよく編成する

 どれも大事なプロセスです。しかし、ここで問題になるのは価値ある記事をピックアップするキュレーション能力です。目利き力については、キュレーターの役割として第1回で触れました。この力が弱くなってくると、意図や意思のない、ただ閲覧数を稼ぐことだけを目的とした「なんてことのない記事」や、信じていいのかどうか怪しいサイトの「まとめ」が並び始めます。そうなると人間が介在する意味などなくなってしまいます。

 多くのキュレーションアプリでは、もはや「編集者」がいません。価値があるかないかは編集者の価値観ではなく、外的な要因で決定されます。さらに、アプリが見出しを付けることはありませんし、なんらかのロジックに基づいた編成が実行されています。

 人力で作業を行っている「Yahoo!ニュースアプリ」を、機械が作業を行っている「スマートニュース」「グノシー」がダウンロード数で抜いているというのですから(第2回参照)、アクセス数やシェア数に基づいたり、ほかの明文化されたロジックに従ったりして、記事をピックアップするような編集者は、すでにテクノロジーにとって代わられ、不要と宣言されているということなのでしょう。編集者が介在して利益が上がるなら、そうしているはずです。ヤフトピが編集者を介在させているのは、利益はともかく、そうすることで(今のところ機械にはできない)情報に対する信頼が担保できると考えているからです。

「NAVERまとめ」「Togetter」も、わざわざ高給な編集者を雇いません。そんなことをしなくても、ソーシャルの力で、次々と「まとめ」を作って行ってくれるのですから、わざわざ高い人件費を支払ってまでして、まとめを作ることに価値を感じていないとも言えます。

 IT企業が要衝を押さえた流通サイドのメディアでは、すでに職業的な編集者が介在することの意味を見出しておらず、編集の省力化が始まっているのです。要は、ありものを組み合わせるだけだったり、価値基準を自分の中に持たない編集者は役割を終えてしまいました。

誰にも取材しない、誰でも書ける
生産サイドで「コタツ記事」が激増

 次に生産サイドの編集者や記者に求められるスキルを見てみましょう。生産サイドのメディアでは、目利き力を持った編集者だけでなく、記事を書く記者やライターも働いています。編集者は、記者やライターに対して「こういう切り口で、こういう記事を書いてほしい」と執筆のお願いをするわけですが、ここで問題にしたいのは取材の有無です。

インターネットには、ネタがゴロゴロと転がっています。芸能人のブログには女優の結婚報告があったり、動画サイトには面白動画が山とあったりといった具合です。人に話を聞くような取材をしなくても記事ができてしまうところがミソ。

 インターネットという情報環境に存在するネタを紹介する記事を執筆したり、ありものをまとめて編集したりすることは、特別なスキルがなくても、基本的に誰にでもできてしまいます。コタツに入っていながらでも書けることから「コタツ記事」とも呼ばれます。テレビ番組を見ながら、その内容を記事にするのも同じです。


 そんなコタツ記事を書いてもらうために、わざわざ高い原稿料を支払う必要はないでしょう。文字数にもよりますが、「原稿1本を数百円で書いてほしい」と依頼する会社もあると聞きました。職業としてやっていくには馬鹿らしく、そうした記事の執筆は、すべてアルバイトの学生らにとって代わられるはずです。アメリカでは、たとえばAP通信が「オートメーテッド・インサイツ」と提携し、決算発表など公開情報に基づく定形記事の執筆を機械にやらせており、日本でも近い将来、あるジャンルにおいては、テクノロジーが人間のライターにとって代わるでしょう。

閲覧数を追い求め信頼を失った
ネット編集者に未来はない

 このままだと、流通と生産の両方において、職業人としての編集者は存在する意味を失ってしまうかもしれません。しかし、そういう時代だからこそ、職業的な編集者の力が発揮できるはずです。

 キーワードは「ユーザーファースト」です。新しくもなんともないキーワードですが、これ以上に普遍的な言葉もないと思います。ユーザーを思いやることは、テクノロジーや総体としてコミットメントのないソーシャルにはできないからです。犬や猫、お姉さんたちの写真を紹介しながら、「閲覧数が示すようにユーザーは喜んで読んでくれている」と言葉を美しく言い換えてみたところで、「なんてことのない記事」を生産し、流通させるページビュー至上主義は、所詮、企業の儲けのための論理です。

 誤解がないように付け足しておきますが、芸能やスポーツといった娯楽ジャンルを否定しているわけではありません。ユーザーの利益を装いながら、人の書いた記事に形ばかりのコメントを足して「オリジナル記事」と称し、ネットに流通させるような商業主義とそれに従事する“編集者”がネットメディアの信頼と価値を損なわせ、自らの足元をすくっていることに気づくべきなのです。

いまネットメディアに決定的に足りないのは「ユーザーからの信頼」です。案外、気づかないものですが、取材を軸として展開する生産メディアのエスタブリッシュメントの多くは、ここダイヤモンド・オンラインをはじめとした出版社、読売新聞などの全国紙、時事やロイターといった通信社など伝統的メディアのネット部門です。ネット専業のメディアで十分な信頼を勝ち得たメディアは名前がほとんど上がってこないのが現状です。

信頼あるネットメディアを作っていくために必要不可欠な仕事が「取材」です。なぜなら取材は思い込みではなく、事実に接触する行為だからです。伝統的メディアは、この重要性を理解していますが、流通、生産ともにネットの新興メディアは必ずしも理解しているとは言えません。

 まずはネットで圧倒的な影響力を持つ流通サイドのメディアが、伝統的メディアまでをページビュー至上主義競争に引きずり込んでいる異常事態に気づき、生産サイドをいい意味でコントロールすべきなのです。生産サイドは「なんてことのない記事」の方が儲かるから生産しているのであって、責任の一端は流通サイドにもあります。

 そうした努力をしていくことで、編集者は意味のある企画を考え、ライターは取材をして記事を書くことができるようになるはずです。流通サイドのメディアが自社の売上と同じくらい記事の信頼に意識を向け、ユーザーのことを考えるならば、インターネットニュースはもう少しマシな場所になるはずです。

 私は、閲覧数や売上といった現実を重視すればするほど、編集者はテクノロジーやソーシャルに負けて役割を失っていくと考えています。前LINE社長の森川亮さんもこう言っています。「おそらく多くの会社は、特に上場すると、数字のために働くことになりますよね。数字というのは、それだけを考えて上がるものではなく、むしろ数字だけ考えて働くとお客様が離れてしまうこともあります」(参照:http://diamond.jp/articles/-/72800)と。

 こういう話をすると、「そんなのは現実的ではない」という意味で「奥村さんはロマンティストですね」と言われたことが何度かあります。もし、そうであれば皆ロマンティストであるべきで、結局、ユーザーのためを考えない編集者やライターは、テクノロジーとソーシャルという現実の波の中に消えていくのです。

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