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2019年02月22日15:27

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認知から見た自由民主主義 2.a間違える真・善・美

人間は真・善・美において確実に間違うようにできている
これはもうどうしようもない

マーブルチョコレートがテーブルの上に転がっている
多分 多くの人は3個や5個であれば 瞬時に個数をいうことができるだろう
特に数えようと意識しなくてもだ
訓練を積んだ人なら9個とか10個くらいいけるかもしれない
でも 38個だったら人類にはまず不可能だ
我々にはその能力は備わっていない

心の理論では 2次や3次であれば相手の心理を読んで理解することが可能だ
人によっては5〜6次までいけると言われている
しかし それ以上は人類には能力が備わっていない

最先端で素粒子の研究ができるような種類の人でも
その辺りの能力は全く変わらない
逆に劣っているかもしれない可能性はある
まあ 言ってみれば種としての限界であって
我々から見たらチンパンジーが絵を描く能力を持たないのと同じ意味で
我々の能力は限られた範囲のものでしかないし
これが今後進化する傾向もない

マーブルチョコレートでわかることは
ある一定の複雑さがある場合正確な真偽判定が不可能であるということだ
我々人類が地球の歴史上 最高位の真偽判定ができる種であることから
そこに限界があるということが問題とされることは少ない
そこを何かの問題として提議しても全く意味はないからだ

「心の理論」は他人の心を読み
そして他人も自分と同じように自分の心が読めている
そういった信念のうちに そう信じられる範囲をどれくらい広げていくことができるか?
という能力について述べたものだ
他人の心が特定の事象を認知しているかどうかの「真偽判定」ができることが基礎となっていると言われている

2次3次の人間関係の中での真偽判定ならば
通常の人間の能力は 瞬時に(考えていることを意識せずに)答えを出せるだろう
テーブルに置かれたマーブルチョコレートを数えずとも言い当てることができるように
しかし やはり複雑になれば考えて答えを出すしかない
この「考える」過程で人は間違う
マーブルチョコレートを38個認知できる能力があれば
それを考えずに それ専門の脳の領域で処理できれば(これは我々にとってその状態がどういったものであるかは想像もできないが)
間違うはずもない(テーブルに置かれたマーブルチョコレートが3つであることが現実としてほぼ間違いが起こりえないように)
しかし
我々は 考えるゆえに間違える

我々は他の動物に比較してみれば
自らの専門的な脳の部位の能力を超えて 社会に立ち現れる現象を
間違える可能性をおかしつつ解決し続けているものだと言える

「真・善・美」のうち
美に関してはある程度の独立性を持って機能させているが
真・善については相互乗り入れが激しく
真であるゆえに善
善であるがゆえに真
であるという循環論法に陥ることがしばしばある

「自由主義は自由主義が善であるからこそ政治思想として真である」

とはどういったことか?
自由主義を民主主義と入れ替えてもいい

「民主主義は民主主義が善であるから政治思想として真である」

これは何も言っていないに等しい

「平等主義は真であるがゆえに善である」
「再分配は真であるがゆえに善である」

でも同じだ

当然 古今東西の思想家はそれに気づいている
深くそれについて考えを巡らし
他の学者との討議を経て 再考に次ぐ再考を強いられているからだ
心の理論も論理として紙に書いて考え
それを何人もの同種の研究者と討議すれば何時であろうが理解できるのと同じだ
しかし
どこかの時点で 「真・善・美」は根拠に行き詰まる
まだ専門領域の脳が十分に発達していない青少年が
「なぜ人を殺しちゃいけないの?」と疑問を発するようなものだ
成熟した我々の脳は「人を殺してはならない」という命題を
一瞥して答えを出してしまう
マーブルチョコレートが3つあるのは当然にして真であり
それを疑うことができないのと同じ「善」である判断だ

ではその無根拠性という問題をどう解決したのかといえば
【相対主義】という概念で説明したのだ
これについては多くの説明を要しないだろう
物事についての真偽判定はここの主観に依存しているのだから
表面化する真偽判定は相対的なもので絶対的な真も善もないというものだ
それ以降
真・善・美は相対主義との関わり合いの中で論じられることになった
相対主義を否定する側も含めてである

この現代社会のベースにあると思われる相対主義に対して
認知科学は 認知考古学はいかなる説を提示できるか?
それは非常に単純で明快な回答である

真・善・美は人間が生来的に持っている
ただ その能力には限界がある
そもそもそれらの能力は狩猟採集生活下での人間の生存.繁殖に有利なものが淘汰圧を経て獲得したものであり
当然 環境が変わって それぞれの専門領域が相互的乗り込んで出した回答は確実に間違える

というものだ
マーブルチョコレート3つと心の理論がせいぜい5次くらい
という状況把握能力の人間が作り上げた社会制度は
それ相応のものにならざるをえないという回答だ

「寛容は、われわれとは誤りを犯す人間であり、誤りを犯すことは人間的であるし、われわれのすべては始終誤りを犯しているという洞察から必然的に導かれてくる。としたら、われわれは相互に誤りを許しあおうではないか。これが自然法の基礎である。」
とはヴォルテールの言葉だ

もっともな言葉のようにも聞こえるが
寛容(善)は人間は誤りを犯す(真)事実に鑑みて必要である(真・善)
であって
これは38個を数えたヴォルテールにとっては限りなく真に近い善としての解決策ではあるだろうが
3個しかわからない大衆にとって(人間にとって)はトートロジー以上の価値を持たない
それでもこの話に乗らねばならないような強制性を持たせるのが現代民主主義だ
言ってみれば
「真・善・美」を丸ごと委託しろという制度設計が人間の政治思想であり
それは永遠に続く時間があったとしても
人類が乗り越えられない限界値だ

文化相対主義とは「社会的知能」からくる心の理論を
従来心の理論を利用してきた個別の心を はるかに大きな文化的共同体 あるいは 国家に範囲を広げたもので本来の知能を使うべき適用範囲を無視して拡大した典型例である
いささかあやふやではあるが
10次ほどの心の理論がもし人間の心に機能として与されていたならば
我々にそんな思想は必要なかったのだ
与されていないからこそ
我々はそこで妥協し 真ではない仮想された概念を用いて問題解決をはからねばならないのだろう


自由民主主義はあくまでも間違えた結果だ
我々にそれを適切に運用する能力はない

続く

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