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2019年01月20日10:18

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季刊誌「礼拝と音楽」第180巻(特集:聖霊)を買いに出かける

皆様、おはようございます。

一昨日、外気温10℃の中、いつものように、半袖半ズボン姿で、ママチャリに乗って、表記の季刊誌「礼拝と音楽」第180巻を買いに、御茶ノ水の聖書センターに出かけました。


季刊誌「礼拝と音楽」は、昭和47年創刊号から歯抜けなく、収集し、維持保管しています。


第180巻目の特集は、「聖霊」がテーマでした。


ペルソナ(1つの位格)としての聖霊

   ・・・・・・・私の内なる他者とともに生きるよろこび・・・・・・・阿部仲麻呂

礼拝における聖霊の働き・・・・・・・聖公会「祈祷書」の視点から・・・・・・・宮崎光

聖霊を歌う賛美歌・・・・・・・荒瀬牧彦

古代における聖霊

   東方教会・・・・・・・大森正樹

   西方教会・・・・・・・小高毅

ウェスレーと聖霊・・・・・・・神より生まれて・・・・・・・藤本満

ペンテコステ派と聖霊・・・・・・・鈴木正和


エッセイ  奏楽の中に聖霊が働かれる・・・・・・・加藤千加子




巻頭言には、

聖霊。三位一体の神の「顔」のなかで、いちばん身近なはずなのに、いちばんわからない。

「わからない」から、性質のまったく異なるさまざまな現象にたとえられてきた。

「わからない」から、その理解をめぐって分裂も起こった。

今わたしたちは、「わからない」けれどこの世界でたしかに働かれる聖霊によって、多様なまま一つにされ未来を信じたい。

また、写真(ドイツ・リューベックのヤコビ教会の説教壇)が添付されていて、「説教者へ聖霊が振るようにと、天蓋内側の中央に聖霊を表す鳩の彫刻が取り付けられている。」と説明されていました。




感想(所見):


三位一体(御父・御子・聖霊)は、「三位一体の神」と呼ばれ、御父は神、御子はイエス・キリスト、聖霊は明確に定義されていませんよね。


私は昔々から、伝達(通信)手段と位置付けて参りました。


聖書の中で、神とイエス様の関係が物語風に記述され、イスラエル地方で起きた事件の如く記述されているので、イメージし易いと、阿部仲麻呂氏が言われています。


皆様、本当に、イメージし易いでしょうか。


神は何ぞや、イエス様は何ぞやとの明確な定義付けもされていませんので、イメージも湧きません。


益してや、聖霊は何ぞやとはサッパリわからいでしょうよ!!


神秘主義研究家の後妻と合った時は、平成初期(1992年)、1997年に再婚するまで、キリスト教神秘主義について、解釈法を教授して貰いました。


神秘主義では、例えれば、神はお母さんの母体(胎内)を示し、イエス様は胎児を示し、聖霊は臍の緒を示しているとの表現でした。


これならば、イメージ的に、聖書の記述よりも、はっきりとイメージ出来ますよね!!


聖書の中身(内容)は、イスラエルで起きた事件であると、どのような、何の、エビデンス(科学的証拠)を基に、主張出来るかが問題なのですよ。


聖書に記述されてある事象・事案・事例は、何一つ、エビデンスとしての証拠物件(甲第1号証)に基づいて、存在したと断言・断定出来ないのです。


聖書の奥付を診ても、著作人名、発行人、発行年月日、値段等々が付記されていません。


誰が記述したのか、いつ発行されたのか、奥付に開示されていないため、わからないのです。


昔々から、聖書をはじめ、世界の様々な聖典や経典に描かれている内容は、本来、我々一人ひとりの精神界(魂・心・気持ち)のあるべき姿を表現しており、我々凡人には精神界の事象が理解できないために、精神界を物質界に置換して、物語風に、事件記録として、描かれていることに気づくべきなのです。


痴漢ではなく、置換されている絡繰りに、気づけるか否か、が問題なのです。


ここに、錯覚性、錯綜性、誤認混同性があるのです。




今まで、100人余りの聖職者(神父、司祭、牧師、伝道師、宣教師、高僧、貫主、宮司、神主等々)のプロ達に面会し、この絡繰りについて、尋ねてみましたが、皆様、異口同音的に「睨め顔」をしていましたね。


無理もありませんよね!!


聖職者のプロ達が、神学校やその他の宗教関係の学校で、学習されたことは、この世(物質界)の出来事(事件)と教わったと言っているのですから。



歴史(世界史、日本史)学の史実として、記述されているから、嘘ではないとの論調でしたね。


また、神学校では、聖書解釈に対して、統一見解もなく、学校で学んだ知識を、各教会の聖職者として任命された時、夫々の想いで、メッセージ(説教)されればいいとのことを仰っていました。



ここに、大きな誤りがあることも知らずして、クリスチャンをはじめ、多くの信者さん達に向かって語り続けてきたことが判明しました。




さて、今回の聖霊のテーマ程、興味深い記事はありませんよね!!


私は理系人としての思考法から診れば、自然を神仏と捉え、自分自身の真心(持って生まれた清い魂・心)をイエス様と捉え、「自然(=神仏)」と「自分自身の真心」との通信手段を「聖霊」と捉えているのです。


自然(=神仏)から何が聞えるのか、自分自身の真心に対して、自然(=神仏)からの信号がキャッチできるのか、伝わるのか、甚だ疑問に感じると想います。


それもその通りですよ!!


大半の人間は、聖職者のプロをはじめ、クリスチャン、他の信者に関わらず、自分自身の真心の姿を忘れ、全ての事を邪心(大人になるにつれて増大される邪心・邪鬼・邪気・邪道)で、処理・対応しているため、真の聖霊が伝わらないと考察しているのです。


「利己中な生き方」から「利他中の生かされ方」に、生まれ変わった人は、真の聖霊が判るはずですから。


生まれ変われるか否かが問題で、そこに、宗教の大きな目的・課題があるわけです。


聖霊とは自然(=神仏)と自分自身の真心との対話をするための伝達(通信)手段の役割を果たしていると結論付けたいのですが。


真の聖霊は、五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)では味わえない世界観です。


精神(魂・心・気持ち)の感性で、味わうことが出来る世界観だと想っているのです。


「心で聴く」感性力を磨かない限り、伝達できない世界観とも言えましょうね!1


皆様、如何でしょうか。




神、イエス様を他人事のように想わず、自分自身の真心と邪心との葛藤に対して、真の聖霊を介しての反省・悔い改め、改善を促していると考えて戴ければ幸いです。


キリスト教では、これらを真の復活とか再臨との表現で語られ、仏教では、真の悟りとか、解脱、涅槃との表現で開示されているわけです。


イスラム教では、真のジ・ハード(聖戦)との表現です。


このような事象(修行・実践・研鑽)を物質界で実行すると、世の中の悲劇(不幸)事件となってしまうのです。


宗教での実行活動は、人間一人ひとりの精神界(魂・心・気持ち)のあるべき姿に生まれ変わることを意味していますから。


サリン事件、ジ・ハード事件にならない様に、錯綜性、誤認混同性を今一度、考えなおして欲しいのですよ!!



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