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2022年01月21日00:00

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旧約聖書後半 特講(E-5)

【ユダヤ人の預言の仕方を知る】
民がイザヤの書物を理解できないことについてニーファイが挙げた一つの理由は,「彼らがユダヤ人の預言の仕方を知らないから」(2ニーファイ25:1)であった。その預言の仕方には,幾つかの要素がある。

モーセの律法
『旧約聖書』の時代,イスラエルの家は『旧約聖書』の最初の5書に書かれたモーセの律法によって生活していた。イザヤの書物のおもな目的の一つは,この律法の聖約に民の注意を促し,従わせようということであった。またその律法は,民にキリストについて教え,キリストのことをいつも思わせ,キリストに近づかせようとするものであった(モーサヤ3:15;13:31;16:14;アルマ25:15-16;34:14参照)。モーセの律法は,ユダヤ人の預言がわき出る源であった。ユダヤ人の預言の仕方を理解するには彼らの律法を理解しなければならない。
イザヤは自分の書を,律法の中のモーセの歌の引用から始めている(イザヤ1:2を申命32:1と比較)。この歌は民になじみ深かったので,ヘブライ人は歌がすぐに分かった。ほとんどの人がそらんじていた律法の中の語句は,文中で見るよりもはるかに多くのものを彼らの心に伝えたのである。イザヤはモーセの律法を知っていた人々に実に効果的に伝えることができた。個々の語や節の意味するところをいちいち詳しく説明する必要がなかったからである。このことは,末日聖徒にとって理解し難いことではない。
彼らも同じことを経験している。キンボール大管長の「……を速めなさい」という言葉が何を速めるのか,どういう意味なのか,活発な教会員であれば皆分かることである。マッケイ大管長の「いかなる成功も......の失敗を償うことはできない」という言葉にしても同じである。読み手と書き手の双方がよく知っている事柄を採り上げたとき,多くについて説明が不要になる。イザヤとヘブライ人の場合もそうであった。

比喩的文章
イザヤは書物の中で,東洋的な思考の仕方をするヘブライ人によく理解されるイメージや比喩を用いた。しかし欧米人にとっては,東洋的な物の書き方は理解しにくいことが多い。イザヤは,用いた一語一語を欠かさず解釈してもらう気はなかった。隠喩,直喩,類推,たとえ,象徴を頻繁に使用している。幾つかの例を挙げてみよう。
イザヤ1:1ではイザヤが自分でユダとエルサレムについて語っていると述べているにもかかわらず,1:10では「……ソドム……よ,主の言葉を聞け。......ゴモラの民よ,.....」と言っている。ソドムとゴモラは罪悪のためアブラハムの時代に滅びているので,イザヤが実際にソドムとゴモラに語っているはずはない(創世19:24-25参照)。彼はユダが実に邪悪で,ソドムとゴモラのような滅亡の瀬戸際にあることを一段と激しく伝えるために,この二つの町の名を使ったのである。
イザヤ28:23-29の文章は,文化的背景や文章形式を考慮して読む必要のあることを示している。イザヤの時代の農民生活に詳しい人にとっては,土地を耕し,種をまき,脱穀する様子を描写したイザヤの言葉は,鮮やかな情景をはっきり描いてくれる。しかし,その順序が分からない人には,イザヤが29節で用いている直喩を理解することは難しいであろう。ここでイザヤは種まきと刈り入れを,この民に対する主の業と,善人と悪人を分ける世の刈り入れとに比べたのである。C・F・カイルとF・デリッチはこの箇所をこう説明した。「表現は実に威厳を持ち,預言者が高きみくらに住まう神の知恵を頂いていたことが即座に分かる。農夫が畑や果物を扱う際に踏む賢明な天与の順序は,教師たる神御自身がその国民を扱う際に踏む賢明な手順を象徴している。イスラエルはエホバの畑である。エホバの懲罰は,その畑を強制的に起こし,返し,耕す『すき』や『つるはし』である。だがそれはいつまでも続くわけではない。畑がそうして緩んで軟らかくなり,再び肥沃になると,苦しみの多いすき返しは終わり,今度は様々な方法で,しかもあふれるばかりの恩寵により,恵みの種まきや植え付けが行われる。さらに言えば,イスラエルは,エホバの打ち場の子である(イザヤ21:10参照)。主は打たれる。打つばかりか,たたくことさえされる。しかし確かに打ちはするが,主はいつまでも打ち続けられるわけではない。それはカスパリが説明しているとおりである。『主は国民すべてを同じ厳しさで罰せられない。人によっては,ほかの人よりもはるかに厳しく罰せられる人もいるが,そのような人に対しても,いつまでも罰し続けるわけではなく,神の御心が果たされて,罪のもみ殼が除かれれば,罰はすぐにやむのである。そして,もみ殻以外の何物でもない極悪人と,国そのものの殻とが罰によって吹き散らされるのである。』(イザヤ1:25;29:20-21を比較)これが,このたとえの裏に隠された厳粛な教え,愛に満ちた慰めである。」(『旧約聖書注解』7:2:16) イザヤ48章では,民のかたくなさを示すために「その首は鉄の筋」(4節)という隠喩を使っている。10節には,民を清め,精練する「苦しみの炉」という言葉がある。18節では,義人に与えられる心の平安を語るのに「あなたの平安は川のように」という直喩を用い,19節では,イスラエルが主に従ったときに得られる多くの子孫(砂粒のように多い)を表すのに「あなたの子孫は砂粒のようになって」という,これも直喩を使っている。こうした比喩の使用によって,著者の文章に迫力と美しさと生命感が加わっている。
イザヤ44:13-20では,預言者はイスラエルの偶像礼拝を詩的な言葉で描写した。イザヤは,同じ木から人の拝む神々と日用品ができるさまを語りながら,偶像礼拝の愚かさについて一段と強烈なイメージを描き出している。このような言い方は,ただ偶像礼拝をやめよと言うよりもはるかに説得力がある。

両義性と深遠な言葉遣い
預言の言葉によく見られることだが,イザヤの書物にも二重の意味を持つ箇所がある。つまり,その言葉が複数の場合に当てはまるか,複数回成就するというものである。二重の意味を持った句が,特定の人のみを対象とするか,あるいは特定の人にしか理解されないように意図した言葉と結びつけている箇所もある。
このような深遠な表現を通して宗教上の概念を理解できるのは,然るべき宗教的背景を持った人だけである。彼らはそれ以上の説明がなくても,容易に理解することができるのである。例えばイザヤ2:2では,「もろもろの山のかしらとして」立つ「主の家の山」について言われている。ハロルド・B・リー大管長は,「主の家の山」という言葉は「場所であるとともに義人の定義でもある」と述べている。(「永遠の命への道」『エンサイン』1971年11月号,p.15)。「主の家の山は,もろもろの山のかしらとして堅く立ち」の言葉は,ユタの山々の頂上に開拓者が来て教会と神殿を建てたこと(リー「永遠の命への道」p.15参照)で成就されたが,ユダヤ人がエルサレムに帰り,そこにやがて主の家が立つこと(教義と聖約133:13参照)も成就するはずである。それは一般に,神の力と権威があって,しかも神がその民と交わられる場所をいう。「すべての国はこれに流れてき」(イザヤ2:2)という事実は,初期にユタ山地の谷へ聖徒たちが集合したことと,より広範な意味におけるシオンへの聖徒の集合の両方を指すと見てよい。シオンという語(3節)も幾つかに適用され,アメリカの新エルサレム,ユダヤのエルサレム,主の民,または世界各地の彼らが集まる場所をいう場合がある。イザヤはこうした言葉を使うことによって,彼の言葉の特別な意義を理解する人々に,奥深い霊的な意味を伝えているのである。
14,15章で,イザヤはイスラエルの集合と,やがてはバビロンに勝つことについて書いている。この象徴は,両義性を示す優れた例である。「バビロン」は,イザヤの時代に実在したバビロニヤの国と,世の悪およびバビロニヤに見られる,この世におけるサタンの支配の両方を指して用いられている。イザヤはバビロンについて書いたこれらの章で,将来のバビロンの崩壊(国として,およびこの世の象徴として)と,イスラエルの勝利と,前世においてルシフェルとその軍勢が投げ落とされたことに通じる概念を用いている(イザヤ14:4-23参照)。彼の言葉は両義性を持つとともに深遠である。イザヤの示した教えを完全に把握できるのは,主の救いの計画を理解できる人だけである。イザヤの時代に成就したメッセージは,終わりの日に起こる出来事の予型でもある。その意味において,イザヤ書の多くの章は両義的であるといえる。ニーファイがユダヤ人の預言の仕方について話した点は,表現と意味の豊かさであったと思われる。頻繁にモーセの律法に言及し,比喩や象徴的な言葉,二重の意味を持つ難解な語句が随所に用いられている。現代の読者は古代イスラエルの時代や文化を十分に把握することはできないが,イザヤが完全な意味を伝えようとして用いた語法や工夫を理解すれば,イザヤ書をより深く理解できるであろう。
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