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2019年10月22日00:07

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ローマ9章

01 私はキリストにあって真実を語る。偽りは言わない。私の良心も聖霊によって、私にこう証をしている。
02 即ち、私に大きな悲しみがあり、私の心に絶えざる痛みがある。
03 実際、私の兄弟、肉による同族の為なら、私のこの身が呪われて、キリストから離されても厭わない。
04 彼らはイスラエル人であって、子たる身分を授けられる事も、栄光も、諸々の契約も、律法を授けられる事も、礼拝も、数々の約束も彼らのもの、
05 また父祖達も彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠に褒むべきかな、アーメン。
06 しかし、神の言が無効になったという訳ではない。なぜなら、イスラエルから出た者が全部イスラエルなのではなく、
07 また、アブラハムの子孫だからといって、その全部が子であるのではないからである。かえって「イサクから出る者が、貴方の子孫と呼ばれるであろう」。
08 即ち、肉の子がそのまま神の子なのではなく、寧ろ約束の子が子孫として認められるのである。
09 約束の言葉はこうである。「来年の今頃、私はまた来る。そして、サラに男子が与えられるであろう」。
10 そればかりではなく、一人の人、即ち、私達の父祖イサクによって受胎したリベカの場合も、また同様である。
11 まだ子供らが生れもせず、善も悪もしない先に、神の選びの計画が、
12 業によらず、召した方によって行われる為に、「兄は弟に仕えるであろう」と、彼女に仰せられたのである。
13 「私はヤコブを愛しエサウを憎んだ」と書いてある通りである。
14 では、私達は何と言おうか。神の側に不正があるのか。断じてそうではない。
15 神はモーセに言われた、「私は自分の憐もうとする者を憐み、慈しもうとする者を、慈しむ」。
16 故に、それは人間の意志や努力によるのではなく、ただ神の憐みによるのである。
17 聖書はパロにこう言っている、「私が貴方を立てたのは、この事の為である。即ち、貴方によって私の力を現し、また、私の名が全世界に言い広められる為である」。
18 だから、神はその憐もうと思う者を憐み、頑なにしようと思う者を、頑なに成さるのである。
19 そこで、貴方は言うであろう、「なぜ神は、尚も人を責められるのか。誰が、神の意図に逆らい得ようか」。
20 ああ人よ。貴方は、神に言い逆らうとは、一体、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、「なぜ、私をこのように造ったのか」と言う事があろうか。
21 陶器を造る者は、同じ土くれから、一つを尊い器に、他を卑しい器に造り上げる権能がないのであろうか。
22 もし、神が怒りを表し、且つ、御自身の力を知らせようと思われつつも、滅びる事になっている怒りの器を、大いなる寛容をもって忍ばれたとすれば、
23 且つ、栄光に与らせる為に、予め用意された憐みの器に御自身の栄光の富を知らせようとされたとすれば、どうであろうか。
24 神は、この憐みの器として、また私達をも、ユダヤ人の中からだけではなく、異邦人の中からも召されたのである。
25 それは、ホセアの書でも言われている通りである、「私は、私の民でない者を、私の民と呼び、愛されなかった者を、愛される者と呼ぶであろう。
26 貴方方は私の民ではないと、彼らに言ったその場所で、彼らは生ける神の子らであると、呼ばれるであろう」。
27 また、イザヤはイスラエルについて叫んでいる、「例え、イスラエルの子らの数は、浜の砂のようであっても、救われるのは、残された者だけであろう。
28 主は、御言を厳しくまた速やかに、地上に成し遂げられるであろう」。
29 さらに、イザヤは預言した、「もし、万軍の主が私達に子孫を残されなかったなら、私達はソドムのようになり、ゴモラと同じようになったであろう」。
30 では、私達は何と言おうか。義を追い求めなかった異邦人は、義、即ち、信仰による義を得た。
31 しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。
32 なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。彼らは、躓きの石に躓いたのである。
33 「見よ、私はシオンに、躓きの石、妨げの岩を置く。それにより頼む者は、失望に終る事がない」と書いてある通りである。
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