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2020年06月27日17:07

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第五章 ディオニューソスp.189

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ついての解釋の中に根據を持つてゐるのである。

祭の機能は、その他の供犠的儀禮の機能と異なりはしない。デュルケームが見事に理解したやうに、問題なのは、創始的體驗を反復體驗し、一切の活力と一切の豐饒性の起源として知覺される起源を再現することによつて、文化秩序に生氣を與へ更新することなのである。實際、その瞬間こそ、共同體の統一が最も緊密で、際限なき暴力の中に再び落ち込むことに對する恐怖が最も強烈なのだ。

文化秩序は未開人にとつて、どうあつても守らなければならない、そして強化しなければならない、脆くて貴重な良きものであり、どんな場合でも決して投げ捨てたり、變へたり、弱めたりしてはならないもののやうに見えるのである。したがつて祭の背後には、さまざまな《タブー》に對する懷疑的態度も、恨みに思ふ感情もありはしない。そんなものは現代人である我々を特徴づけるものであり、我々が原始的な宗教的思考の上に投射してゐるだけの感情なのである。現代の精神-社會學〔プシコ=ソシオロジー〕のクレーム・タルト〔二番目には持ち出すもの〕であるかの有名な「緊張緩和」(release of tensions)、果てしない「息抜き」relaxation)は、起源の儀禮の精神とは完全に無縁な精神で、祭の儀禮的行爲のただ一つの面しかつかんでゐない、しかも不完全にしかつかんでゐないのである。

祭は、供犠の危機とその解決との間に聯續があるといふ、暴力の活動についての解釋を基盤にしてゐる。爾來、その幸福な結末から切り離すことの出來ないものとなつた危機自體が、お祭り騒ぎの材料になるのである。しかしかうした解釋だけが、可能な唯一の解釋ではない。王の近親相姦の中で我々が既に見た通り、危機とその終局との間の關係に關する宗教的な考へ方は、對立する二つの道をたどることが出來る。注意を惹くのは、ある時は兩者間の聯續であり、ある時は非聯續である。この二つの解釋のいづれも、部分的に正しくて部分的に間違つてゐる。自實は、危機と創始的暴力との間にはある種の聯續と
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