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2020年06月27日10:41

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第五章 ディオニューソスp.188

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體驗を嬉々として思ひ出すといふことがどんなに奇妙に見えようとも、さうした不可思議〔ミステール〕を解決するのは簡單である。我々の注意をもつとも強く惹きつけ、つひには祭全體を支配するに至り、祭の進行の最後まで存續しつづける祭獨特の諸要素は、祭が存在するための理由ではない。いはゆる祭は、祭の最高潮と祭の終局を同時に印づける供犠のいはば準備段階でしかないのである。ロジェ・カイヨワは、祭の暴力が、陽氣な記念祭の對象となり得るとすれば、それは、それらがやがて到達することになる淨化〔カタルシス〕的解決の、必然的な前提條件のやうに見えるからである。創始的な滿場一致の良き性格は、過去にさかのぼり、危機のさまざまな惡しき面を次第に彩つて美しくする。この時、危機の意味は逆轉するのだ。暴力的非差異化が恩惠的な含意〔コノタシヨン〕を獲得する。その含意がやがて暴力的非差異化を、我々が祭と呼ぶものに仕立てあげるだらう。

我々は既に、同じ種類の解釋の幾つかを見て來たし、それらは、少なくとも部分的には、祭の枠内に登録し得る。例へば、儀禮的近親相姦は、結局は、供犠とは殆ど獨立してゐるかのやうに見える良き價値を獲得することになる。ある種の社會では、貴族たちや、それに藝術家たちさへも、とりわけ何らかの困難な企てに取り掛かるに當たつて、彼らに《幸運をもたらす》やう儀禮的近親相姦に、多少ともこつそりと頼るのである。アフリカの王たちの卽位と若返力に結び付いた儀禮は、多くの場合、それらを祭に近付ける性格を持つてゐる。逆に、本當の王を直接そこに卷き込まない祭では、人々は一時的な王をみつける。時には、供犠期間のいけにへである《道化たちの王樣》を見つけるのだ。祭の終りに、いけにへとして殺されるのは彼か、あるいは彼の代理である。現實のものであれ空想的なものであれ、永續的なものであれ一時的なものであれ、王の王たる身分は、常に、贖罪のいけにへに集中した創始的暴力に
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