着脱式鉄亜鈴を1組、使っています。20歳の夏、帰省中に、堺市内の商店街のスポーツ用品店で購入したものです。固定式ではなく着脱式にしたのは、少しずつ買い足していくつもりだったからです。結局のところ、40年がたちましたが、買い足していません。20歳のときの片方10キログラムのままです。10キロなので大したことはないのですが、合計20キロですからそれなりに重たくて、自転車に積んで帰る途中、自転車が蛇行したのを記憶しています。
10キロの鉄亜鈴と40年間、仲良くしています。10キロより重たい重量を挙げるほど、私の筋肉は発達してくれませんが、10キロが挙げられなくなるくらい筋力が衰えてもいません。発達はしないけれど、とにかく40年間、続いています。
メルローポンティの『知覚の現象学』を、毎日、少しずつ読んでいます。手洗いに置いてあって、そこで数分間、読むのです。もう何年も読んでいますが、終わりそうにもありません。死ぬまでに読み終えるかどうか分かりません。最近は、読み終えようが読み終えなかろうがどうでもいいと思うようになっています。
鉄亜鈴と同じでです。10キロの鉄亜鈴が挙がるから、もう挙げなくていい。そんなわけはありません。毎日、挙げるから意味があるのです。もし挙げられるものなら、毎日、死ぬまで挙げたいものです。『知覚の現象学』も同じです。終わらなくてもいいから、毎日、読むのです。
鉄亜鈴の構造を知ったところで、鉄亜鈴が挙げられるわけではありません。鉄亜鈴の挙げ方の本を読んだところで、鉄亜鈴が挙げられるわけでもありません。挙げるから、挙げられるようになるのです。『知覚の現象学』も、同じです。読まないと、読めるようにはならないのです。読めるようになる、とは、鉄亜鈴と同じです。10キロの鉄亜鈴を挙げる筋力をつけるということです。『知覚の現象学』を読むことができる体になることです。もっと大事なのは、『知覚の現象学』のように考える体になること。これです。
10キロの鉄亜鈴が1回、挙がったからといって、本棚に飾っておくだけではもったいない。
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