mixiユーザー(id:19073951)

2020年07月12日11:26

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複眼的視点でものを見る

「300円(百円玉3枚)持って130円の買い物をしたら、お釣りはいくら?」

文系脳の答え:70円。
普段の買い物を想像して200円で払うから。
理系脳の答え:170円。
300円−130円だから。

文系脳での柔軟な発想と、理系脳での合理的な行動を兼ね備えていたいと思う(^^

話は変わるが,このところ今更のように,カラヤン指揮のオーケストラ曲を聴いている。
「カラヤンのワーグナーを聴く」というよりは「ワーグナーでカラヤンを聴く」という感覚が強い。
カラヤンの音には,音以外の要素,神話の神々も,キリスト教も信仰も,あるいは哲学も理屈も弁証法も,または訳の分からない罪悪感とか人生の苦悩,闘争と勝利,そういった要素が全くない,
ただ純粋に音だけが秩序と美を持って確固として存在している。

「解釈」という小さな金魚鉢の中で飼っていた魚を,大きな水槽に移し替えたような感じ。
酸欠の飽和状態の中,モサっとひっつき合っていた音の一つ一つが,広い水槽で自由に生き生きと泳ぎ,躍動する。
楽器間の音の重なりという縦方向と,オーケストラという壮大な楽器群が生み出す横方向の広がり。そして旋律・和声が進行する前後方向。その三次元に,あれだけ豪快で芳醇な音で鳴らしながら,一切の破綻がない精緻で美しい音世界が広がっていく。

この表現は,テロリストの美化にもつながりかねない,危険な言葉であまり好きではないのだが「美しくて何が悪い!?」
だから好きなのだと思う。

生前のカラヤンは,その評価が二分していた。
「哲学がない」「音が綺麗なだけで深みがない」といったものが,悪評の典型例だ。

しかし,21世紀のネット社会に生きる私は,そのような悪評の先入観にとらわれることなく,色眼鏡を持たず,新鮮で自由な視点からカラヤンの音楽を聴くことができる。

先入観や色眼鏡を持たない,と言うことは,例えばクラシックやモダンジャズは難解で格調高い音楽,ロックやポピュラーは一段低い娯楽音楽といった,ステレオタイプのジャンル分け,優劣付けを行うことなく「情報として等価に扱う」ことを意味する。

ネットによる音源と情報の配信,そしてグローバリゼーションが進展した現代に於いては,私は個人的にクラシック音楽に代表されるハイカルチャーもカウンターカルチャーも,ポピュラー音楽に代表されるサブカルも,それらのジャンルから脱構築されたもの,そのカテゴリーを失ったミクスチャー状態にあるものとしてとらえている。

音楽を例に取ればバッハ,ベートーヴェン以降,機能和声と平均律を前提とする,現在のほぼ全ての音楽は,ジャズもロックもポピュラーも,演歌も基本的に等価に扱われるということを意味する。

ポピュラーを聞くようにクラシックを聴くことができ,クラシックを聴く感覚でジャズを聴く,そしてそのジャズも現代音楽も紙一重,ということ。

しかし,同じ土俵の上で等価に多様な音楽を扱うことができる,と言うことは,ハイカルチャーやサブカルといった優劣のカテゴライズから解放されるメリットがあると同時に,その音楽がたどってきた出自,歴史,背景といったコンテクストからも脱構築されてしまうことも意味する。

歴史の背景の分断。
「宗教やイデオロギーの終焉。いや、もう少し正確に言うと、哲学も、歴史も、イデオロギーも、さらにはロマン派的芸術精神も、単に終焉し消滅したのじゃなくて、むしろきれいに解体:ディスインテグレートされて「パーツ」となり、テクノロジーや経済活動が必要とする時に利用できる『コンテンツ』に変容した、と言った方がいいでしょう。」
〜岡田暁生ほか編「文学・芸術は何のためにあるのか」

カラヤンの音楽は,前述の「音楽以外の要素」が,一度歴史の背景から切り離され脱構築されたのちに,各パーツとなって,彼の手によって再構築されたように思う。

ヒョーロン家諸氏は「哲学がない」などと言っても,そもそも音楽は哲学や人生を「語って」いるのではないのだ。

音楽は音楽は言語のように論理的でも,また絵画や彫刻,工芸のように可視性もなくその分,抽象的にしか伝達することができない。

言語なら「止まれ」,"stop"と文字にしたら,それは受け手に100%誤解の無い指示を与えることができるし,色彩なら,赤と言う色から,「進め」という指示を連想する人は,まずいない。
「×」の造形の場合,それが何かを禁止している,ということも,ほぼ判断を迷わせる余地はない。

しかし音楽の場合,同じ旋律を聴いても,そこに歌詞,あるいは標題や予備知識が無かったら,どのような印象を受けるかは,全く聴き手に委ねられている。

それが,聴き手の自由な想像や発想を広げる長所でもあり,同時に事物を抽象的にしか伝達し得ない欠点でもある。

カラヤン美楽,と言われる,音楽の脱構築と再構成。
それは決して一概に否定されるべきものではないが,私は,同じ土俵の上で等価に音楽を扱うことと,その音楽が置かれてきた,たどってきた歴史や背景を踏まえること,その両方を常に意識した,複眼的な視点を持って音楽に接したいと思う。

見方の優劣ではなく,双方の複眼的視点を兼ね備えることで,より奥行きのある理解が得られると思うのだ。

300円の買い物のおつりが,発想や見方によっては70円だったり,170円になったりするように。



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