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2020年04月29日08:45

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オリジナルと複製,一回性と再現性

「楽譜の意図が再現されるのは演奏家が楽譜通りに演奏を行なうことでなく、演奏家が作曲家の意図を顧慮し自己の音楽的感性を発揮して演奏を行なうことによってである。

指揮者のヴィルヘルム・フルトヴェングラーは,楽譜が実際に意図されたフォルテの音量、実際に意図されたテンポの速さを何ら指示できない。すべてのフォルテ、すべてのテンポは演奏場所・演奏舞台・演奏団体の力量に合わせ、実際上変えられねばならぬからであると述べている。

このことはテンポやダイナミクスの量だけでなく、アタックやアーティキュレーション、ヴィブラートや音色、ヴァイオリンやオーボエといった楽器の場合その調音についても言える。これらの楽譜表記は決められた演奏ができるほどはっきりしてはいない。楽譜の指示はその都度個々の音楽的コンテクストに従って解釈されねばならない。

事実このことは何も音楽だけには限られない。
だから本を読むことも、テクストが読み手の経験を通じて意味を生み出す時間プロセスという意味では一種の演奏である。」

〜ニコラス・クック(音楽学者)「音楽・想像・文化」より

生演奏・コンサートは,良くも悪しくも,全く同じものを二度と再生できない,一回性,唯一性,独自性(=再現性の無さ)をはらんでいる。

そんな一回性を否定し,演奏や音楽再現の多様性の可能性の観点から,ステレオ録音とオーディオ再生機器の普及などテクノロジーの発展という時代背景もありコンサートを否定,その演奏活動をレコードへの録音にひたすら費やしたのが,ピアニストのグールドだった。
(あまりにシャイゆえ,ステージ上に虎視眈々と向けられる観客からの鋭利な視線に耐えられなかった,という点も起因しているであろう)

一方,哲学者のベンヤミンは,そのような複製技術の発展と複製品による文化の消耗品化,消費について,生演奏・コンサートなど,オリジナル作品だけが持ちうるアウラ(オーラ)の消滅と憂いた。

私は,これら一回性,唯一性の問題は,基本的に「演奏者側の視点」によるものと考える。
演奏家,制作者にとっては,オリジナルは確かに一回性,唯一性,独自性をもつものであるが,しかし,同時に聴き手や鑑賞者にとっては,レコード,CD,放送音源や配信音楽,あるいは複製画といった多量に生産された消費財としての複製品もまた,一回性,唯一性,独自性をもちうると思う。

聴き手にとっては,ラジオやTVからたまたま流れてきた音楽に,衝撃を受けることもあるし,自分の好きな評論家や音楽家が愛好,推薦していた名盤を自ら進んで聴く場合もあるだろう。
そのような機会を踏まえ,同じ演奏者の別な曲を聴きたい,あるいは同時代の別な作曲家の録音も積極的に聴いてみたいと思う場合もある。
そのような場合,複製品からも人生を左右しかねない大きな衝撃を受けることもあり得る。

さらには,同じ音源を10代20代で聴くのと,30代40代,50代60代〜で聴くのとでは,全く意味や受け取り方が違ってくるようなこともある。

つまり,演奏者にとっては,生演奏・コンサートが一回性,唯一性,独自性を持つものであるとしても,聴き手にとってはたとえ複製品からであっても,聴取の機会,可能性は,「その場,その時点,その環境」という唯一性,独自性,「一期一会の出会い」を持ちうるものであると思うのだ。

シューマンはベルリオーズの『幻想交響曲』との初めての出合いについてこう語っている。

「最初のうちはその『標題』も私自身の楽しみや想像力の自由を損ねるものだった。
しかし最初の印象が次第に薄れ私自身の空想が働き出すにつれ、その標題がすべて曲に表現されているばかりでなくほとんどいつも生命の温もりをもった音で表現されていることも判ってきた」

私はこのシューマンの言葉に,標題音楽と絶対音楽は相容れないものではなく,彼のいう空想すなわち聴き手の想像力をもって,双方を止揚することができるように思う。
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