星野源の「ネットで一緒にセッションしませんか?」との呼びかけに対する,安倍総理のフォローが物議をかもしている。
本来,星野氏が目指したセッションとしてではなく、自分が伝えたいメッセージとして,当代きっての人気音楽家の楽曲に便乗し利用したことへの,音楽に対する敬意,配慮の欠けた態度が問題視されている。
このような便乗も,音楽の持つ強く神秘的な力に起因する故のことであろう。
かつてナチスは,ゲルマン民族の国威発揚のために,ワーグナーの音楽の持つ異様なテンションの盛り上がり(→それを精神の高揚とすり替えた)を利用した。
そのワーグナーの音楽は,神話に名を借りた壮大なドロドロの愛憎劇だったけれど(^^;)
また中世においては,暗い教会の中で荘厳に鳴り響く音楽は,神そしてキリスト教への畏れ敬いと,そして宗教改革の後には賛美歌となって,当時の最新技術であった活版印刷で刷られた聖書とともに,広く民衆へのプロテスタンティズムの浸透に深く寄与した。
東洋においても,例えば仏教の唱名,宮廷音楽である雅楽など,音楽はその力ゆえに常に宗教,政治,まつりごとと一体のものとしてあった。
私は,個人的には音楽はただ音楽であるべき,音楽以外の要素と軽々しく結びつけてはいけないと考える者ではあるが,それでも音楽のルーツを考えると,例えば生き生きとしたエモーショナルな情動など,音楽と音楽以外の要素とは切り離すことはできないとも思う。
そのことを考えるとき,常に思い起こすのが,若い頃の思い出である。
バブル期が消えかかる少し前に就職した私の,職場の隣の席に,美しく聡明で,性格もよい,素敵な女性の先輩がいた。
当時は,クリスマスともなれば,男どもは競って意中の女性に高価なプレゼントを贈ったものである。
私は,その素敵な女性に「○○さんは,たくさんプレゼントをもらうんでしょ」と尋ねた。
彼女はほほえんで,否定はしない。
そこで私は,こうも尋ねてみた。
「もし意中の人ではない男性から素敵なプレゼントをもらったら,どうするんですか? そのままもらっちゃうんですか?」
そこで彼女は,とびっきりの笑顔をみせて,こう答えたのである。
「だって,物には罪はないもの(^^)」
そう,ここでいう「素敵なプレゼント」こそ,音楽にほかならない。
便乗のダシに使われた音楽に罪はなく,その使い方に罪があるのだ。
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