mixiユーザー(id:19073951)

2020年04月07日18:20

175 view

こんな時に思う「芸術や文化は,何のためにあるのか?」

ハーバード大学の心理学者スティーブン・ピンカーは、音楽とは,何か他の目的のために脳の「感じやすい部分をくすぐる」ために利用されたものと考え,その著作「心の仕組み」で,音楽を「聴覚的チーズケーキ」であるとした。
チーズケーキには,ポルノ写真のグラビアなど異性を誘惑するものの比喩としての意味がある。

ピンカーにとって音楽は、進化した他の目的から派生したものであり、人間が娯楽のために生みだしたものでしかない。彼は言う。
「生物学的な因果関係だけを考えると、音楽は無益だ。言語とはまったく異なり、(中略)技術であって適応ではない」と。

進化論を唱えたダーウィンは,感情表現は人間が動物だったときの名残りでしかないとし、著作「人間の進化」では「音階やリズムは人類の祖先が異性の気を引くために獲得したものである」という。
動物の鳴き声は恐怖・苦痛や異性に存在を示す・猫のさかりのついた声などを表現している。あらゆるものが進化上の理由を持つに違いないというダーウィンによれば「動物の鳴き声の進化したものに音楽の原点がある」というのだ。

果たして,本当にそうなのか?
音楽はじめ,芸術は,私たちの「生」にとって,必ずしも必要なものではない,「暗喩としてのチーズケーキ」のような,下世話な楽しみと言ったようなものでしかないのだろうか?

日々,朝起きて,職場や自宅などで働き,その労働の対価で得た食料を摂取し,睡眠する。
人生が死ぬまでその過程の繰り返しに過ぎないものだとしたら,確かに文化・芸術は,金銭や食料,睡眠などに比べ,必要不可欠のものとは言えないだろう。

しかし,聖書の教えにもあるように「人は,パンのみにて生きるのではあらず」なのだ。

楽しい時間はすぐに過ぎ去り,そして苦痛の時間はいつ果てるともなく長く感じる。
素晴らしい絵画に見とれているときは時の経過を忘れ,30分の演奏時間の交響曲が,人間の一生という全く別の長さの時間を表現することもある。

同じ時間の長さでも,それを長く感じるか,短く感じるかは,ダリの溶けてゆがんだ時計のごとく,人それぞれだ。
そしてその時計で計ることのできる現実時間とはかけ離れた,我を忘れるような感動の時間の中にいるときこそ,生きているという実感や本質を見いだしたような気持ちになる。

芸術とは,このように,私たちの住む,この一見秩序あるかのように見える社会システムに,それと対峙してパラレルに存在する別の時間と空間を持った異質の世界ではないかと思う。

「芸術とは,最も美しい嘘である」〜ドビュッシー
「芸術とは,われわれに真理を悟らせてくれる,嘘である。」〜ピカソ
「芸術上の現実性とは非現実のことであり、言葉では補えない多層な表出性をもつべきものだ。」〜武満徹
「この世は不完全です。だから芸術があるのです」〜ファジル・サイ

多くの芸術家たちが,現実世界と,そしてそれと対峙する非現実の時空世界である芸術世界を,このような言葉で対比的に喩えてきた。

彼らが「嘘」と表現する不条理なものがほしくなるのは,あまりに「条理」にとらわれ過ぎている,一見秩序ある社会システムで構築された現実世界の中にあって,自己を保つ上で,健全な欲求であると思う。

例えば,バッハの「マタイ受難曲」を初めて聴いたときに受けた,まがまがしいまでに暴力的な衝撃は,未だに忘れることができない。

人間の罪を一身に背負い,頭には茨のとげ突き刺さる冠をおごられ,手足は十字架に釘付けにされ,その重い十字架を背負いながら,ゴルゴダの丘を血を流し,人々の嘲笑,裏切りと激痛に耐えつつ重い足取りで歩み,息絶える。
その血なまぐさい暴力的なまでの描写と,荘厳で重厚な悲劇的な音楽に,西洋人でもなければクリスチャンでもない,そしてドイツ語も分からない私は,ただただ圧倒されてしまったのである。

時代も人種も国籍も言語も宗教も,それらを瞬時に超越し,音楽で人の業の深さをここまでドラマチックに表現できるものなのか!と,ただただ圧倒されてしまった。
聴く前は,「受難曲」と言えば宗教曲として,聖なる静謐な楽曲とのイメージを持っていただけの私は,その血なまぐさく暴力的で,そして荘厳で美しい音楽の前に,しばし言葉と時間を失ってしまったのである。

あるいは、何気ないありふれた野の池や道の情景。それが画家の手にかかると,それはモデルとなった現実の景色,光景を離れ,画家の心象風景の扉の入り口となる。

誰の目にも映るごくありふれた光景でさえ、芸術家の手にかかれば、作品としてわれわれの心を打つものになる。
芸術とは、生きづらさに満ちた現実世界では忌避されるべき不条理が,矛盾なく調和し,条理の世界であるこの現実世界では姿を隠して潜んでいるものを、作品の中に表わすことによって、存在するすべてのものを矛盾なく調和の取れたものに変えてしまう力なのではないだろうか。

「繊細にして骨太」「クールにして情熱的」「技巧的でありながらうたごころあふれる」「コクがあるのにキレもある」,あるいは醜と美,過去と未来,西と東,聖と俗といった現実世界において両立困難な要素も,芸術世界においてなら矛盾なく成立せしめ,表現することができる。

芸術は,この科学技術に支配された世界で不条理な現代の社会にあって,ひとびとの救いとなり得るもの。決して単に「チーズケーキ」に過ぎないものではなく,私たちにとって条理と不条理の生存のバランスをとるうえで必要なものであるように思える。
そして作品とは,現実世界と,その現実世界とパラレルに存在する,その先の向こうの芸術世界との間に存在する「結界」あるいは「扉の入り口」のようなものかもしれない。

私たちが生きる現実世界,全てのものが分断され,自分の力の及ばぬところに生存がゆだねられているという無力感,喪失感に満ちた現実世界では,私たちはみなすべて、社会システム,秩序を保つための規格的な行動を求められる。
使い古された言葉で言えば「規格化された歯車の一つ」として生きることを求められる。

このような世界に生きるということは,その現実世界以外の所に生きる根拠を求めるということになる。生きづらさと困難に満ちた現実世界は、逆説的ではあるが、芸術にとって存在の意義を生んだことも否定できない。

この規格化された現実世界の中で、私たちは一時でも現実の憂さを忘れ,「今,ここではないどこか」へと連れて行ってくれる,いっときでも現実を忘れ夢を見せてくれるかのような芸術を求めるのだ。

芸術作品は,こちらの現実世界と,あちらの世界との間の結界になる。
芸術家は,美しい声を持たない私たちの代弁者でもあり,わたしたちが芸術を希求するのは,そこから先の,憂さと困難に満ちた現実界とは全く別にパラレルワールドのように存在する「あちらの世界」へ一時でも足を踏み入れたい,願わくばそちらの世界に取り込まれたい,
そんな希望とも諦念ともつかぬ思いから出づるものなのだろう。

「音楽において,現実の世界から一種のイマジネールな空間的時間世界への突然の移行が我々を陶酔に導き入れ,そして陶酔は我々が美しきものに接して感じる情緒的状態にほかならない」〜アンセルメ(指揮者)

「芸術にはこのような現実脱却を準備させる手段が存在する。
三次元の世界である現実の自然景は絵画で二次元のカンヴァスに画かれる。生きた人体は、単色の、固い石を通じて刻み出される。現実の事件はフィクションとして小説に書かれる。音楽に用いられる楽音は現実界の噪音とは異なっている。演劇は現実の場ではなく舞台で、登場人物その人ではなく役者によって演じられる。映画はスクリーンの上に光と影によって展開される。そのほかさまざまの手段によって、芸術が現実の地盤にないことが明らかにされる。
芸術家は鑑賞者をまず第一に、現実の地盤から引き離してしまわければならない。」
〜渡辺護「芸術学」

しかし,これは必ずしも,つらく困難に満ちた現実世界からの「逃避」のみを導くことに限らない。
「夢」とは,その中で惰眠をむさぼるために見るものではなく,そこから抜け出せない甘美な世界に自らを逃避させるために見るものでもなく,記憶や体験をいったんバラバラに解体し,生きていくためにそれらがどのような意味を持つのかを把握整理するために見るものなのだ。

「私たちが音楽を演奏したり、うっとりするような演奏を聴くとき、一時的に外から刺激が入ってくることから守られる。
そのとき、私たちは世間から隔絶した特殊な世界、秩序が支配していて不調和は閉め出されている世界に入り込むのである。

本来、これは有益なものである。それは現実逃避ではなく、もっと遠くまで跳ぶために後ずさりするための退却であって、外界からの逃げ道を用意するのではなく,適応を助けるものである」〜ストー(精神医学)「音楽する精神」

文化,芸術は、この世界が完全にシステム化されてしまうのを、この世界が,そして私たちの生が,歯車のように単なる物質に化してしまうのを未然に防いでいる。

「芸術が社会に何かの役割を持つとすれば,人々に自分の内面的な自己の存在を意識させ,自分の内面的なものを変えることを示唆できるのではないかと言うことだと思います。
そうすると,人間としてもっと人間らしくなれる。

現実というのは自分が何者であり,自分が誰であるかと言うことを完全に受け入れることだと思います。
ほとんどの人間はそれを認めることができず,拒絶し,そして恐怖する生活を繰り返していると思います」〜武満徹「対談選」

生きづらさに満ちたつらい現実世界も,そしてその中にあっても,音楽や絵画など心打たれる芸術作品が確かに存在するのも,それもまた同じ世界の中の出来事。
1枚のコインの表と裏。
こんな芸術があるなら,この世界に生きているのも悪くないな。
生きていれば,また更にまだ見たことのない絵画,聞いたことのない音楽と出会える,そう思えば,浮き世の空気もまんざら捨てたものじゃない。
そう思わせてくれるのが,芸術の持つ静かな,そして強い魔力であるように思える。

「芸術・文化は,何のためにあるのか?」と記したこの日記の最後は,その言葉を表題としたこの文献からの引用で締めくくろうと思う。
岡田暁生(音楽学者)ほか編「文学・芸術は何のためにあるのか」より。

「文学・芸術は何のためにあるのか?
それは人間にとって根本的な問題を引き受けるためにある。

その問題とは,最終的には『この生にこの世界に意味はあるのか?』という問いの形で表現できる。
この問から逃れることはできない。いくら気を逸らしても,問いはそこに有り続ける。

文学や芸術はこの問いを引き受ける。
だが引き受けるのであって答えるのではない。
文学や芸術に親しんだと言って,この問いの表す問題が解決されるわけではない。
解決どころか,文学・芸術に関わりあうことで,問題は更に深くなってゆく。
深めることだけが,この問題に対処する,ただひとつの道である。
(中略)
幸いなことに、私たちは芸術によって命を落とすことは、まずない。私たちは芸術体験という儀礼を通して再び蘇る。
こちらの世界へ戻ってくることが出来る。

その時、自分の身体が、心が、世界が、それまでとはまるで違って見える。
心の闇を引き受け、それを爆発させ、過去の自分を崩落させ、そして生き返らせてくれること。これが『芸術の与える生きる希望』について、それを信じてやまない私が、言葉でもって伝えることの出来る限界である。」

12 5

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2020年04月>
   1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930