mixiユーザー(id:19073951)

2019年12月12日18:08

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音は、間違いなく、生きものなのだ。

不肖にして一塊の,ただの未熟な音楽嗜好症(ミュジコフィリア)の私だが(^^;,尊敬する大作曲家と思いを一つにするような言葉と出会った。

「作曲という仕事は、どうしても音を弄り過ぎて、その音が本来どこから来たかというような痕跡までも消し去ってしまう。
方法論だけに厳格になると、ともすると音楽は紙の上だけの構築物になり、空気の通わないものになる。

例えば、ひとつの和音は、物理的波長の複雑な集束として、音響学的には、殆ど、不変のものとして存在し、また規定し得るだろう。
だが、音楽という有機的な流れの中では、その(ひとつの和音の)響きは千変万化するもので、その表情の豊かさは、まるで、生きたもののようである。
一般に言われる、長和音は明るく、短和音は暗いというようなことがかならずしも正確でないのは、注意深く音楽(作品)を聴けば、容易に、理解されることである。

ではなぜ、音は、あたかも生きもののようにその表情を変えるのだろう?
答えは、至極、単純に違いない。

即ち、音は、間違いなく、生きものなのだ。
そしてそれは、個体を有たない自然のようなものだ。
風や水が、豊かで複雑な変化の様態を示すように、音は、私たちの感性の受容度に応じて、豊かにも、貧しくもなる。

私は、音を使って作曲をするのではない。私は音と協同:コラボレートするのだ」
〜武満徹「時間の園丁」より

音が発せられた瞬間,音はこの世に溌剌としたエネルギーを持って生まれ,やがて精気を失い減衰し,残響となり消えゆく。
消えるまでに,先に発せられ生まれてきた音と和音となって響き合い,旋律を構成し,老いて自らの音が消えゆく最中もその後に生まれてきた新しい音と共鳴,共生する。
それは私たちの日々の生活での,他人との関わりや,生命の営みそのもののようにも思える。
音と生命は似ている。
武満の音楽は命に満ち溢れている。

彼の音楽は,常に形と色彩を変え,一定の姿をとどめない「雲」のようだ。
雲はいずこからともなく自然に発生し,常に形と色彩を変え,そしていずこともなく消えていく。
武満の音楽も同じ。
姿かたちをとどめない雲を眺めるのと同じく,音楽の流れとともに,音の色彩と響きが移り変わっていくそのさま,そのままを感じ,味わう。
音楽というより,音空間あるいは音世界と言った方が適切かも知れない。

たぶん私は,武満の音楽を,「音楽」として「聴いて」はいない。
風のそよぎ,虫の声,波の満ち引き,あるいは雷鳴といった,自然現象の「音の移ろい」として,
「聴く」というよりも「耳を開き」,
あるいは,朝焼けや夕暮れの空が七色に姿を変えるような,自然現象の「色彩の移ろい」として,
「見る」というよりも「眺めて」いるのかもしれない。

いわゆる「音楽」を認識する脳の部位とは異なる部位で,彼の音楽を感じ,認識しているような気がする。

「あなた(武満)の音楽は,視覚的なものを聴覚的なものに翻訳しているようだ」〜谷川俊太郎の言葉
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