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2019年02月23日09:58

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緑輝く〜命を映す水鏡

録画しておいたBS「ニッポン印象派」水鏡〜御射鹿池を見た。
マイミクさんにもファンの多い東山魁夷の代表作「緑輝く」のモチーフとなった景色。

優れた文筆家でもあった東山魁夷は,この御射鹿池,そして「緑輝く」について,このような素晴らしい文章を残している。

「一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った―そんな空想が私の心のなかに浮かびました。

私はその時、なんとなくモーツァルトのピアノ協奏曲の第二楽章の旋律が響いているのを感じました。
おだやかで、ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。

白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです」

まだ訪れたことはないが,この澄み切った景色は,東山魁夷の上記の文章のように,なぜか音楽を想起させずにはいられない。

私は,この景色から,同様に信州の自然を愛し,そこに作曲用の小さな別荘を構え,作曲にふけっていた武満徹の,このただひたすらに美しい音楽を思い出した。
武満徹「波の盆」
https://www.youtube.com/watch?v=assN4do9TSo

御射鹿池は,強い酸性度のため,ほとんど水中に微生物が存在しないという。
そのため,透明度が極めて高く澄んでおり,周囲の木立を,文字通り「水鏡」として水面にくっきりと映し出す。
まるで,生き写しのようだ。

水面を境にして,水上の上半分は実際の木立生い茂る,木々の生命が息づく「現実」の世界。
下半分は,それと全く同じ世界であるが,手に触れることすらできない,命のない世界。
そこは命の世界を写した「仮象」の世界だ。

そこで,気づいた。
この上下対称の景色こそ,音楽や絵画によく似ているものなのだと。
いわば空気の振動に過ぎない音楽が,なぜ人の心を魅了せずにはいられないのか?
作曲家は自らの思い,願い,観念といったものを,空気の振動に託す。
私たち聴取者は,実態のない空気の振動から,「仮象」として込められた作曲家の思い,願い,観念といったものを聴き取る。
「水鏡」が媒体となって,実際の命ある景色を,命のない世界に「仮象」として鮮やかに生き生きと映し出すのと同様に,音楽も,そこに命のない空気の振動に,作曲家の思い,願い,観念を「仮象」として映し出す。

そして,東山魁夷が,この景色に魅了され,画筆を走らせずにはいられなかったように,絵画もまた,画家のその衝動を,色彩と形態の配置に仮象として描き出す。

そう,「白い馬」という色彩と馬の造形はピアノの旋律の仮象、
「生い茂る木々」の色彩と造形は,オーケストラの仮象なのだ。

本来,命の輝きを持ち得ない空気の振動やキャンバスの仮象の空間の中に,芸術家は思い,願い,観念といったものを乗せていく。
私たちは,その思いや願いが映し出された仮象から,芸術家の思い,願いを読み取り,聴き取る。

しかし,御射鹿池の,生い茂る命あふれる木立の鮮やかな生命が,くっきりと水面に描き出された仮象は,芸術家の人の手によって作為を持って描き出されたものではない。

いわば,自然自らが,最高の仮象の作り手,芸術家と言えるのではないか。
だからこそ,芸術家たちは,この景色に魅了され,音楽を,絵画を描き出さずにはいられないのではないかと思う。

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