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2018年11月20日21:22

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文章の武者修行

今日は午前中有給休暇をとり,午後,地元の県立美術館で開催されている「ポーラ美術館コレクション展」を見てきた。

箱根のポーラ美術館は,そのコレクションも素晴らしいが,そのロケーションも,まるで緑の世界を進む白い宇宙船のような建物で,とても美しく素敵な場所だ。

展示は,モネからルノアール,ピサロといった印象派。その後を担うマティス,ヴラマンク,デュフィらのフォービズム,そして後を継ぐキュビズムのピカソ,ブラックと,近代から現代に至るフランス画壇の変遷をたどるというもの。

目を引くいわゆる代表作,傑作が来ている訳ではないが,その分,作品のネームバリューからくる先入観を抜きにして,画家の個性を素直に感じさせる小品が多かった。
音楽で言えば,大編成オーケストラによる絢爛豪華の交響曲ではなく,小編成ならではの冴えが映える弦楽四重奏曲のような感じ。

大好きなデュフィの「弦楽五重奏曲」も来てくれたし(^^)

多少語弊のある言い方かも知れないが,一生に一度見られるかどうかの歴史的傑作に,目と心を凝らして真剣勝負を挑む,そんな大上段に構えるのではなく,あまり気構えずに,名画が放つ香りを呼吸する,といった感じか。

そんな,緊張をはらんだ鑑賞ではなかった分,作品に添えられたキャプション,解説文の文章が気になった。

絵画鑑賞や音楽鑑賞を始めた頃,そのキャプションの内容に,とても感心したことを覚えている。
例えば,絵画なら「色彩の明暗と構図のコントラスト」,音楽なら「転調がもたらす作曲家の心情の変化」といった具合。
ああなるほど,絵画とはこうして,こんなところに着目して見るものなのか。音楽とはこんなところに注意して聴くものなのか,と,とても感心したものだ。

しかし,実に勝手なもので,鑑賞の機会を重ねていくと,そんな解説文の言葉に「そんなの,見たまんま,聴いたまんまじゃん。ほかに言うべきことはないの?」と思うようになった。

「そこじゃねえだろ,語るべきところは!作品と真摯に向き合い,そこから自分だけに聞こえるかすかな声に耳を傾け,自分なりに思ったこと,感じたことを書かなくてどうする!?」とそう思って以来,機会あるごとに,絵画や音楽のレビューコンクールの機会がある度,「文章の武者修行」と称して,自分なりに思ったことを,駄文にしては応募している。

また,そんな時,ある画家の方から「個展に出品するキャプションを書いてみませんか?」との,身に余る光栄なお誘いを頂いた。

もちろん,対象となるその方の作品と,私の文章とで,楽しい真剣勝負をさせて頂いた。
私の一生の思い出となった,とても嬉しい出来事である。

例えば絵画なら「遠近法,明暗法」。音楽なら「和声学」。
それらの技法は,言わば作品を共通の目盛りで測るモノサシだ。
もちろん,モノサシで測ることが無意味とは言わない。
むしろ,そのモノサシで作品を測ることで,様々なジャンルの絵画や音楽も,同じ土俵の上で,客観的に作品を語り,言葉に変えることのできる共通言語となる。
言わば,主観を交えずに,誰が測っても同じ数値になるようなもの。
だからこそ,キャプションとして絵画を「測る」基準としては有効だ。

しかし,語るべきところは,ホントにそこなのか?
今日,そんなキャプションを読んで,気付いた。
私の目指すべきこと,表現したいことは,その真逆のものなのだと。

「見たまま,聴いたままを,難しい言葉で表現する」のではなく
「見えないものを見て,聴こえないものを聴き,それを分かりやすい言葉で伝える」ということなのだ。

例えば,今回の企画展のメインビジュアル。
ルノアール「レースの帽子の少女」をどう表現するか?

少し前に,印象派絵画の傑作を集めたビュールレ展のメインビジュアル。同じルノアールの「かわいいイレーヌ」。
この作品に付けられた「最強の美少女(センター)」ってキャッチコピーが,ちょっとした話題になった。

では,私なら,「レースの帽子の少女」に,どんなキャッチコピーで花を添えるか?
・・・「あなたにも カワイイあげたい」

この言葉にピンときたら,同年代(^^;)

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