学生にWindwsの拡張子について話をしても、どうも通じない。よく考えたら学生は私物パソコン持ち込みですので、エクスプローラのデフォルトが「登録されている拡張子は表示しない」にチェックが入っていて拡張子が表示されていません。そら話が通じないはずで
天正寺城淡河城北側にある天正寺山に築かれたのが天正寺城で、日本城郭体系によると永禄4年(1561)に淡河氏領に有馬則頼が侵入して築いた城とされています。淡河氏はもともとは北条氏の一族で、地頭職として淡河に赴任した時に淡河氏と名前を変えたようです
大阪中小企業診断協会の曜日別交流会。昔は火曜、水曜、木曜の3グループで開催していましたがコロナ禍後は水曜の1グループだけの開催です。新年度は水、木の2グループになるそうです。月1回集まっていますが昨日が最終日でした。マイドーム大阪8階の会議室に
淡河城西付城淡河城の南南西に築かれた付城です。天正7(1549)年に織田信長が越前衆と丹羽長秀に淡河城を攻める付城を構築するように命じましたが実際に付城を造ったのは秀吉のようです。三木合戦では淡河城の城主である淡河弾正は三木城の別所長治に味方し、
朝から近鉄で津へ向かおうとしたら、大阪線が人身事故で止まっており、大和八木駅で1時間ほど待たされることに。伊勢方面への電車がようやくやってきて、大学に間に合いました。三重大学での前期授業が本日からスタート。建物と教室が以前と変わったので機材
久しぶりにLEC梅田へ出かけて経営情報システムの講座を担当。それにしても暑いですね。教室は、もう冷房が入っていました。昼休みは茶屋町の丸善へ、しばらく行かない間に店内が大幅に改装していて、コンピュータ書籍などは一番上の階になっていました。私は
淡河(おうご)城道の駅「淡河」から台地の上にある淡河城を見ることができます。よく見えるのですが城に登っている人は誰もいません(笑)。道の駅近くの小道から川を渡って崖を階段で登っていくことができます。城があった頃は階段ではなく急な切岸で防御を
日本史によく出てくるのが十字架を見つめるザビエルの肖像画です。見つかったのは最近で1920年に茨木市の旧家から見つかりました。ザビエルは貴族の生まれで、生まれたのはスペイン・バスク地方にあるハビエル城(ザビエル城)。19歳でパリの大学に入学し、そ
今は昔、パソコン通信なるものありけり、はばりけり。FLicense(資格)フォーラムに中小企業診断士の勉強会があり、オンラインだけではなくオフライン勉強会が日本の各地にできました。インターネット時代になりましたが、この時のメンバーがいまだに年に1回
三田と三木の途中に淡河(おうご)宿があります。住所は神戸市北区になっていますが、三宮から、かなり遠い山の中にあります。ここを通っていたのが湯山(ゆのやま)街道、湯山とは有馬温泉の別名で摂津国有馬郡湯山村に有馬温泉がありました。もともとは秀吉
柏原城から尾根伝いに移動できる丘陵上にあるのが滝野氏古城です。古城というので柏原城を造るまでの詰城だったようです。溜池の土手を登っていくと帯郭のようなものがあり、滝野氏のものと伝わる墓地があります。この墓地を登ると主郭に入ることができます。
柏原城の隣に滝野氏居館跡があります。鎌倉時代、名張には黒田荘という荘園があり、ここの荘官だったのが大江氏で末裔が百地氏、滝野氏になったと伝わっています。第二次天正伊賀の乱では百地氏、滝野氏などの伊賀衆が柏原城に集結し、織田信長に対して最後の
柏原城 天正伊賀の乱 最後の激戦の舞台織田信長が最初の頃に行っていたのがM&Aによる乗っ取り工作。伊勢国司の北畠家には息子の織田信雄をいれ支配下にします。当時の伊賀や甲賀は惣国と呼ばれる自治組織で盟主はおらず、皆で話し合って運営していました。
冠木門のオプション販売 2024年4月1日各位2020年に発売した「一国一城の主」セットですが、おかげさまで初回セット(障子堀付)、破格値の9億4800万円ということもあり完売いたしました。お申込みいただいた方々、あつく御礼を申し上げます。そこで日頃
ファイティング・コンサルタンツ研究会 花見毎年、恒例の花見です。天満橋駅に集合してお酒などを買い出し大川沿いに。例年ですと、この時期は満開なんですが、ちょうど開花するタイミング。つぼみばかりで一本だけ咲いていました。屋台も出ていましたが、花
「モデム無料ですので、お持ち帰り下さーい!!」。今から22年ほど前、全国の駅前でヤフーBBと書かれたジャンパーを着た一団が紙袋を配っていました。紙袋に入っていたのがADSLモデム。一世を風靡したADSLサービスです。NTTのフレッツADSLサービスが2023年1月
山城ばかり登っているわけではなく、ふだんは仕事をしています(笑)。その一つが大阪府よろず支援拠点での窓口相談です。2014年、各都道府県によろず支援拠点が設置されましたが、大阪の北口チーフは設立当初から10年間、チーフコーディネータを勤められ3月
城山城から尾根沿いに下っていくと見張台というところがあります。見張台の先は崖になっていて、現在は木々が多く何も見えません(笑)。ここから見張っていたのは初瀬街道から竜口に入る道になります。城山城は百地三太夫(百地丹波)の城跡と言われています
大阪府中小企業診断協会・土曜セミナー「起業家がみたソマリア〜支援の限界とビジネスの可能性〜」に参加。講師は20代前半から起業家として活躍している株式会社プレート代表の野口社長。波乱万丈という言葉ではあらわされない、すさまじい人生の話も面白かっ
竜口にある城山城です。竜口(龍口)という地名は室生にある龍穴神社への入口からついたようです。竜口城は東側のピークに造られており、竜口城から尾根を進んでいくと西側のピークに城山城があります。城山城は竜口城に比べると少し小ぶりの郭で土塁に囲まれ
近鉄・赤目口駅から1時間ほど歩くと竜口という山間の集落に着きます。さらに坂を登っていくと切通しになっているところがあり、ここが竜口城(百地丹波城)入口です。ハシゴを登ると急斜面がまっていますが山道が整備されていてピークまで登ることができます
大阪府よろず支援拠点へ行くと昼休みに、まず大阪国際ビル1階にある紀伊国屋書店をのぞくのですが、本屋の対面に大阪商工信用金庫・本店ビルがあって、ここに変なオブジェがあります。ビルができた時にオブジェがあるのは知っていたのですが、今日はすぐ近く
関ケ原の戦いに参加した徳川家康の直属軍は井伊直政(3,600)、松平忠吉(3,000)、本田忠勝(500)だけで、徳川軍本隊は中山道を秀忠が率いていました。あとは家康の命令に従っている豊臣大名たちです。東軍の先鋒は福島正則でしたが、井伊直政が松平忠吉(
堺筋本町駅近くに大阪産業創造館があります。入口壁面にカヌーが漕ぎ登りながら波紋が拡がるアート作品がありますが、あれって七福神だったんですねえ!知ってました?大阪産業創造館がスタートしたのは2001年。2階には大阪府よろず支援拠点があり、週2回ほど
東軍の最前線に布陣しています。大きな杉があり、月見の宮の大杉と呼ばれていました。月見の宮とは、春日神社の別名なんだそうです。この大杉は関ケ原合戦図屏風にも出てきます。ここから宇喜多秀家軍に攻めかかります。福島正則の母親が秀吉の叔母だった関係
福島正則陣跡の後ろに布陣した第二陣にあたります。一緒の陣跡になっていますが、それぞれ3千ちかい兵を擁していたので隣同士で布陣していました。藤堂高虎は黒田長政とともに西軍の切り崩し工作を行い、家康の勝利に貢献します。七度、主君を変えたとよく言
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と言われた本田忠勝です。蜻蛉切という大きな槍を振り回し、数々の戦いに出陣しましたが、かすり傷一つ負わなかったと言われています。大河ドラマ「どうする家康」では山田裕貴さんが演じていました。関ケ
2017年3月3日に設立した合同会社エムアイティエスも無事に8期目を迎えました。パチパチパチ!!ひな祭りの日が設立記念日ですが、法務局へ登記をしに行った日がたまたま、ひな祭りだっただけです。登記した日が設立記念日になるとは全部事項証明書を取得する
672年、大海人皇子軍が関ケ原で大友皇子側の近江軍を破った壬申の乱の後、不破の関が整備されました。中山道、北国街道、伊勢街道の分岐点が関ケ原で交通の要衝でした。東海道の鈴鹿関、北陸道の愛発関とともに古代三関の1つです。関所というと都への侵入者を