有る、の、有るから、言語のことを二番目の有るから、書いていく場合に、作者と呼ばれるものはいなくなり、記号の戯れみたいな角の有る形に入れられて。
文学による快楽とは、結局、記号による快楽なのかも知れない。
文学の言語の悦楽
関係性記号の悦楽とは、
男女対消滅<0>的ないわば、
作者の死とよばれるその表向きの
記号の快楽の生が
絶頂ですらある記号の快楽でありますか。
消滅的な悦楽、いわば、記号が消滅するところがあるから、
文学は悦楽なのだと。
バルト霊媒したら、そうなるのかな。笑。
快楽と、悦楽の区別とかしてないで、バルトの筋肉無視してるとか、は、まぁ、専門家にまかせてね。
まぁ、変換してみると、
文学の言語の悦楽
関係性記号の悦楽とは、
男女対消滅<0>的ないわば、
作者の死とよばれるその表向きの
記号の悦楽の生が
絶頂ですらある記号の悦楽でありますか。
言語によって、
隠されたエロティシズムを
知的に生きるのがテクストの快楽で、
あって、とかね。
バルトみたいに、で、いい。
自由に。
文章が消滅に向かっていて、秘めごと無のうちに、快楽が泉のように、
女体秘儀とある歴史がよみがえるような言語における体験的なものの、
時空を超えた伝わり方に。
記号による快楽が作者の死ですらある
ような、それくらいのエロスがあること、すなわち、架空の作者の死として、テクストは快楽になるのだと。
純粋性に至ろうとする、文学が、カタルシスであり、魂が洗われる読み方は、純粋性のための回帰読書で、記号の快楽を肯定し、「テクスト」を読む者として、論じられる関係性の0への回帰、が、絶頂であるような有機的なヒクヒクがあるにちがいない。興奮する快楽的な記号機械身体になりきり、オートマティスムな身体性が文章の消滅として作品を結ぶ快楽の場所があるにちがいない。
最早、音楽でしかない、
ただ、文学が音楽になった
なのだろうか?
追体験、追認識、認承、受け止めて。
快楽にゆきつく、ある言語実験について、やはり現代は快楽的なのだ。何がしかのありえた、ありえたかも知れない、言葉の新しい配置をして、新しい意味をたちあらわせる。
文学は記号の快楽でしかない、という、言語のユートピア。
そんなものの見方もタイムスリップかな。
まさに、エクリチュールの零度。
純粋無垢の<0>地点に
美少女の裸体と記号の0など、
ルイス・キャロルの論理学が止まらない。
インテリと幼女信仰、
アイドルと知的活動など、
生きて、欲にまみれて、純粋性の回帰に至る一連の肉体による
贖罪篇ですら、あり。
記号の快楽とかいう、なまやさしい言い方では足りない、文学そのものが、生きるのにどうしても、必要な人が、真に文学していると言えるかも知れない。
最初からあった場所。
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