物って、ケアすれば、関係性も復活して、また、きもち的に、使えるようになる。
時間を置いたりして、物との関係性、破綻とのまあいをとり、
いい感じの時に、「捨てるよりも、物を大事にする方が大事。」と、物をケアして、きちんと拭いたりしてね。再び、世界に洗礼させて、出てくる感じです。
物と罪と(所有者との「台無し」発生による、関係性の破綻)きちんと、拭いて、洗礼させて、再び、使う。
物を大事にして、教養を高める観点から、言えば、再び、聖霊に宿ってもらう愛で、ものをケアして、物を洗礼してあげて、処女性の最初から、また、物との深い、博物学的なといってもいい、つきあい方をすること。
物の所有と大事にする教養は、文化の原点であると、おもわれる。物による、楽園と、台無し事案による、破壊、破綻に対して、きちんとケアすれば、豊かにまた、それなりには、もどること。
人間は、新品を買った時、店との、店の人との関係や、いわば、広告のエネルギーを
処女性を持って、たのしんでいるのだが、この少女じゃいられない、ピュアな部分に対するいわゆる、「台無し」事案が、物との関係性の処女を奪う形で、女の生をかたどるものだと、ふだんは、物との関係性の処女性をたのしみ、清らかでいることは、指摘しておこう。
物との関係性の破綻、「台無し事案」とケアによる物とのつきあいの復活は、女性の生の得かた、そのものと言ってもいい、シンボリックなたたかいなのだ。
言ってしまえば、物との関係性の処女性をたのしんで、清新な関係性の維持が、いわゆる、「台無し」になる出来事が来るまで、存続している。それが、物との処女性、関係性の処女が、奪われてしまった時に、所有者のなかで、その物からの離れ、が、起きてしまう。物の豊かさには、そのような心理的な関係性があることは、指摘できるだろう。
自分の価値を下げないために、服を
新陳代謝のように買ってる女の子は、物との関係性の処女をたくわえて、みずみずしく、女の子らしさ、処女性をたくわえ、ある意味で、保つ、ケアする一環として、服を、下着を、買ったりはしていないか。
そんなことが、おもわれた。
物はあっても、関係性が「台無し」で、破綻して、すでに、失っている案件は、あるかも知れない。
つまり、物がいくらあっても、基本は清新な関係性の処女によって、物をシンボリックにうけとる交通が出来ていて、使用できるのだから、なんらかの「台無し」が起きて、物は、あるけど、使えない、後回し、おそらく捨てる、に、分類されているものはあるだろう。
まったく、無名にして、無垢なる場所の、その時、その時の一回性が、与えられ、飲まれ、意味を与える、声、が、いわば、言葉が、
場所に名前を与える生誕について、女性が自分を
きちんと定義するかたちにまで、するには、やはり、男性、男が必要なのではないか。
建築の誕生である。
物の誕生をめぐって、は、生産、創造で、男性的ですら、あり、物の所有には、ケアと復活、清新さを保つ、女性的な持続という課題があるのだと、関係性の破綻、「台無し」事案から、浮かんできた。
そんなことが、思われました。
ログインしてコメントを確認・投稿する