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2020年09月10日23:10

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ファッションの線にすること。



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やっぱり、日本画、日本画的なものとか、鎌倉で、うけとるメッセージとか、山本耀司さんや村上隆さんとつながっている気がする。

鎌倉と山本耀司さんはやはり、「日本」でつながっているし、
村上隆さんは基本、日本画を学んでいた人ですからね。

ひたすら、ヨウジさんから学んでいくと、時々、村上隆さんみたいな日本画からの流れにもつながる。日本的な都市といったものが
あたらしい近代として、描かれてもいいな。範となるようなものって、やはり、日本、なのだと思う。

買った帽子が、山本耀司さんっぽくて、それをかぶりながら、ひたすら、あるいて、大船から、電車で、鎌倉に行ったけど、鎌倉で、日本のイメージそのものと、出会って、山本耀司がモロにつながったけど、ぼくは、やはり、基本は建築、建造物から、ファッションへ入った人だと思う。デザインの世界へ、としては、ですね。

ファッション写真家、というのは、簡単に言えば、物をきちんと撮るとか、
モデルさんが、服を着て、その状態を自分なりに、撮るとか、だけれども、ぼくの中では、やはり、山本耀司さん的な日本的な要素、崩し方のきもちよさ、みたいな隠れて生きたり、アナーキーだったり、ヨウジさんが育った、東京新宿だったりが、やはり、あって。それが「ヨウジヤマモト」というブランド服が、鎌倉につながることの意味は、なんか、わかるんだよなぁ。

ひたすら、ヨウジさんのファッションショーとか、見ていれば、なにかしらはわかると思う。

建築を撮る中心から外すと、途端に、ファッション写真を撮れなくなるようだから、基本、都市と建築に、モデルさんとブランドが身体の表現として、成立する神話みたいなもの。

それが、もし、撮れたら、いいなぁ、くらいだと思う。

ヨウジさん、バンドやっていて、
歌を歌って、音楽、既成のものを、ファッションショーで、使わないんだけど、ぼくは、基本、都市とエレクトロだから、コンピューターで、何がしか、未来のヴィジョンみたいなイメージで、つくるかも知れないな。

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ディオールのキム・ジョーンズさん、好きです。できれば、彼とは仕事がしたいですね。

ジャン・コクトーの絵を所有してるわけですし、きちんと飾って、場を作り出すのも、ありですね。

CONVERSEとVANSは、好きだなぁ。

靴のメーカー、ですね。

コクトーとディオール、シャネルは、関係がありましたから、特に、ココ・シャネルはジャン・コクトーをかわいがりましたからね。

ルイ・カルティエとコクトーの交友もいいですね。アカデミーフランセーズ就任の時の剣はカルティエと共同制作でした。ジャン・コクトー。
ファッション界とも、つながっていましたね。

ロエベには、女性的な存在論が、バックに出ているような気がして仕方ない。

男では、とうてい、出てこないような、デザインがあり、驚く。
まぁ、男のデザイナーが担当したにせよ、女性自身、が、わかっているようなデザインには、うならされる。

本田翼さん、川口春奈さんなど、ファッションブランドで、活躍されているタレントさんを見ると、嬉しいですね。夢があります。いいですね。^^


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デザインやるのに、ひたすら、言葉ばかり読んでがんばっている人は、解釈学をしていて、本来、実作から遠ざかっているのだろうな。
医学書ばかり、読んで、実際の体とふれあえなければ、なかなか、本当には、理解したことにはならない。

見てると、実作から遠ざかることを
しているように見えてしまい、
肝心のデザインをみせないようにする、というのは、やはり、実作にはならない人のスタンスだね。

身体性を言葉の解釈学を、もって、説明できる人になれても、肝心のデザインは、誰かがしたようなものに終始する。

それではダメで、とことん、安藤忠雄さんみたいに、建築見て、ひたすら、図面を引かないと、いけないのではないか?そんなことを、思ってしまいますね。

肝心の線、デザインをおろそかにして、建築家は名乗ってはいけないのではないか?そんなことを思います。
出てきたのは凡で、誰かが、どこかで、やった、コンペで、見向きもされない、「新しい説明」に満ちたもの。
それはある意味、美しいですが、建てられることはないでしょう。

建築の解釈学、建築学としては、すばらしくても、実作者から遠くなる言葉ばかりを漁る探検では、やはり、実作から、は、遠くなるでしょう。

本なんて、家で読んでないで、
ひたすらスマホ、スケッチブック片手に、建築の旅をする方が、よっぽど、学びがあると思います。「安藤忠雄さん」とはそういった建築体力がある人です。

磯崎新さんだって、ひたすら、スケッチブックに線をひきます。建築家とは、そもそも、そういった職業のはずです。言葉ばかりやって、文学者をされていて、肝心の線を見せないようにして、苦手なのかも知れませんが、建築と本当には、向き合わず、建築を使って、結果、建築文学者になるというのなら、それがいいのかも知れないですね。
知的な営為を止めるつもりはありませんが、建築家は模型や線に最後は落ち着くものですから、
それを、ひたすら見せないようでは、出てきても、高雅な説明にしょぼい実作では、いつまでたっても建築家にはなれないでしょう。

むしろ、ぼくの方が、建築家になってきているかも知れない。

ぼくは、正直に、披露し、ひたすら、歩き回り、
スマホで、撮影して、ひたすら、うごきまわったりする。

ただし、私は、今は、ファッション写真にきている。

ファッション。

建築は、やはり、文学者をうみだしたり、ファッションもうみだし、
デザインの、線の母体的統治でもあるからして、ぼくにとっては、やはり、古いと言われても、ヴァルター・グロピウスが言う総合性なのであります。

ぼくにとっては、母体的統治-線の発生する
総合的な存在です。建築家には、それだけ、やはり、総合性が求められるのだと、思います。

線の集まる場所、建築。
採用され、決断され、きちんと、線で、模型で、そして、最後は体で体験できるデザインの総合的な場所、もの。

身体性に言葉が氾濫するのは、建築家の夢が、思想が、体験するだけで、伝わるからだから、結果的に、線で、きちんと、伝えないといけない。しかも、たんなるオブジェではなく、きちんと、人間が営みをする場所として。

恋愛の体質が、それをさせているのだとしたら、しかたないでしょうけど、
女の子とふれあうことなく、女の子について、ひたすら、本で学んで、映像で見て、では、本当の女の子については、わかりようがないと、思います。反発もすれば、男のおもいあがり、みたいなね。

ありますからね。
実作から、遠ざかる、というのは、
目の前の女の子について、考えずに、
ひたすら本や映像、写真で、女の子を勉強しているだけの恋愛体質になります。愛の結果としての建築が、線が、さいご、おちつく場所のはずですから、気をつけて欲しいですね。リアル建築=女の子と触れ合うこと。

言語理解が有機的に一義性を持って、
建築になるためには、
ちぐはぐな部品的な言葉の世界を超えて結ばれる神話的な恋愛がないといけない。

新しい生命=建築がうまれるためには、
ちゃんと、女の子と恋愛して、
新しい命を授からなくては、いけないのでしょう。ただ、恋愛体質の詩性が建築になることもあるでしょうが、
実作から、女の子から文字に逃走しているだけでは、体験はうみだせない、と、いうことです。建築なら、やはり、線を引く。

そんなことを思ったりします。

結論から言えば、安藤忠雄さんはナンパ師です。尊敬できます。笑。

いや、ちょっと、ちがうかも知れませんが、
リアル恋愛できるタイプですね。

恋愛体質と建築について。

実作可能な恋愛体質になれるのか、どうか、

建築のかなわぬ実作を媒介とした、
文学者、未だ建てられぬことで
至高の建築に向かうこと。
実は僕も同じ道を歩んでいる
建築家なのだろう。


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自分達で、日頃作成されている制作的な都市を、
コルビュジエ的な創造の都市を、
パリの運命を、
アルド・ロッシの夢の足取りと超未来的な建築のドローイング予言にしても、ポール・ルドルフ的なありえない、いや、ありえたかも知れない知性のような建築<構想>にしても、ファッションの線にとりこむべきだ。

ひたすらに




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