今、国富論の記述でわかったけど、経済の始まりって、交換から始まっているな。
物と物の
交換から、始まったかも知れないが、
貨幣の誕生にせよ、交換を
めぐっている。
経済について語ることは交換について
基本的には語っていることになる。
確かに、動物はエサを
ただ体に入れて、食べるが
このエサとこのエサとを
「交換」する、なんて「取り引き」は、
しないよなぁ。交換したりはしないよねぇ。理性的にきちんとわたしてね。
人間の段階になって、はじめて
言語を使用し、見えない交換上のルールをきちんとして、これとこれを交換しよう、そして、これを渡すから、これをちょうだいね。
という必ず守られるルールの上で、交換は成り立っているから、理性的な上で貨幣が野獣になったり、
数字だけドライブしたりしてるんだろうなぁ。
法は基本、生命、財産を守るためにあり、
国へ帰属し、国民であることを与える。
国益とは交換がいかに
多様で、豊かに自国がなるか、だな。
交換のために、経済のはじまりは
「交換」から、はじまるのであって、
結局、人間の問題なんだよな。
豊かさのね。国益ってね。本当はね。
階級を上げてくるものを買ったりとか、
資本主義においては、ブランド品はやはり、社会における階級を上げてくる商品だから、ロールプレイングゲームみたいに、ブランド、アイテムを買って、
上に上がっていったりするのだろうな。
交換をしないよねぇ、
きちんと、指差して、これと、
これを交換しよう、なんてね。
動物はそんなことしない。
商業は基本、交換で、成り立っている。
経済のはじまりは交換からはじまった。
この視点から、当然、こころのかたちをした贈与もまた、それと認識できるように、なったのではないか?
交換において、便利なものにした、貨幣の発明も、交換をめぐるものであるから、経済は最初は交換からはじまっている。で、ここでは詐取的な要素がやはり、あるというのは交換では起きるわけだ。これはそうでもないのに、向こうは、そうである、必要であるから、これと交換できる。
貨幣の価値とかもあるけど、
数字と物が価値、として定まり、
「値段」がうまれたことは、やはりあったわけで、
商売のうまい人は、ここが、きちんと
攻めれてる人なんだろうな。
相手の欲しいものを、いかに
仕入れて、さらに
いいものと交換できるか、だよね。
お客さんの誕生、みたいなのも、あったんだろうな。貨幣がきちんと、根づくと、貨幣の誕生、ルールができて、統治機構が、法ができて、お客さんも、誕生したりする。
お客さんが誕生したことも、
有史、かなり、後からだよね。おそらくね。
交換が経済のはじまりであって、動物は、別に明確に取り引きして、交換したりしない事実は確かにあり、経済というものはやはり、
交換からはじまり、交換に終わるのかも知れない。
つまり、贈与と定義できるためには、
交換と貨幣が結びついて、社会的に
一般化してはじめて、「贈与」を感じられたりするのかも知れない、ということだ。貨幣と物の関係性を無償で、タダで、きもちや霊的なものも、ありながら、あげる、渡す、わけだから、当然、交換社会では贈与はいいよね。
交換することが経済社会なのだけれど、贈与は一方的に渡すわけだから、経済社会におけるインパクトはあるよね。
交換、これ、経済のはじまりであり、終わりである。
そんな感じがするなぁ。
貨幣って、交換可能性だよなぁ。
生の自由な行き来、自由度に、貨幣の価値が保たれていれば、
商品の値段もね。貨幣を中心とした、
交換社会が、お金、貨幣をたくさんもっていれば生の自由な行き来、自由度になるのだけれど、
人間が貨幣によって
規定された交換の全体性によって、
自分が貨幣に規定された社会を
いつのまにかに
生きさせられている。
これは意外と無自覚なんだよね。
そうなっていたから、生きている。
もともと経済は
交換からはじまっている。
所有にしても、やはり、なかなか、おもしろいところだよなぁ。
お金を稼ぐことに、縛られている。
でも、誰が決めたんだい?みたいな後世。笑。
お金を稼ぐっていうのも、結局は交換に終わるからね。
お金は交換条件であるから、
必要だけれど、
お金を稼がないと
生きていけないように、社会が仕組みとして、できているだけで、
ふつうに、食べれて、飲めれば、生きていけるんだよね。もともとは交換も、すなわち、取り引きもなく、ただ自然の贈与、食物連鎖の商品前を生きていたわけだから、商品じゃなくても、貨幣交換存在じゃなくても生きていたわけ。
だから、経済活動をしないと、飢えて死ぬなんて言って、ブラジルの大統領がコロナ無策で、人の命を優先しないで、経済活動を優先しているけれど、
人の命の方が経済交換社会より、優先なんだよ。つまり、つくられた貧困を打破し、命を守る政治であってこそ、交換のはじまり、経済の再活性化であって、貨幣や数字だけで、政治をして、
人が死んでもしらない、なんて言うけれど、
そもそも命がまず大事なのに、
まちがったことをしてるよね。
命を守るために、財政出動でいいんだよ。
お金なんて、あとから、なんとでもなる。
命を守る政治が政治の安定。
貨幣の悪魔の部分に支配された大統領は
ブラジルの大統領は、計算で、新型コロナウイルスで亡くなっても、経済優先とか言っている。
人が41万人も病気になり、2万8000人以上もの方が亡くなっているのに、まだきちんと対応しようとしない。
そもそも経済とは貨幣だけから、発想するものではなく、互恵なんだよ。あと、自他不二。
いずれ、めぐりめぐって、今のブラジル大統領も
貨幣に追われ、死ぬだろうな。人の命がお金よりも先なんだよ。
きちんと、命が守れないブラジルの大統領は辞任すべきだ。ブラジルの悪魔を追い出せ。あれでは、ダメだ。
お金なんて、あとから、なんとでもなるんだよ。贈与政府化して、慈善に人を救わないと、ブラジルはね。
本当にピンチの時は、
贈与政府として、手をさしのべ、国民を守らないと。人間として、やっちゃいけないことを平気で政治するやつは、追い出さないとダメだ。
残念ながら、貨幣、お金には、悪い考えをもった人が、本当の意味での「悪」を増大させる傾向があるだろう。
貨幣には、ホワイトマジックとブラックマジックの側面がある。
貨幣は所詮、岩井克人さんがいうように、それ自体では、なんでもないものなのだ。経済のはじまりは交換である。
交換において、貨幣は必要であるが、
人間自体のモラル、
必要なるモラルは経済社会である以上、
交換をめぐる貨幣のあり方には、必要である。
貨幣のホワイトマジックの部分は、
結びつけ得られなかった人を
結びつけ、平和な経済による実現が
可能であることだ。
貨幣がいい人生をおくれるように、
社会は気をつけなければならない。
貨幣はいい人生をおくっているだろうか?きちんと使われて、めぐり、
人と交換をとりもち、
貨幣自体が幸福でなかったら、
経済社会としては、幸福では、ないだろう。
すなわち、自由なふるまいを
閉じ込める、貨幣退蔵の交換を幽閉する金持ちは経済の死であって、経済を理解していないのである。
貨幣自体の人生にとって、
幽閉され、多くのものが交換転生したい、霊の流れ、なのに、その貨幣の自由な日常を退蔵して、幽閉し、社会に交換否定のまわし者として、偉そうにしている非経済的な金持ちを、世界の笑い者にできるだろう。
個人はあってもいいし、自由だが、経済交換社会の暗黙のルールとは、お金は使って、まわしていくものだ、と、いうルールだ。本当の金持ち連中は、ひたすらにお金を貯め込んだところで、交換条件でしかない貨幣、お金を、使いきることなく、没する。
交換条件を貯め込んで、貧困を作り出す金持ち連中はバカである。
自分が主体的に、貨幣を使い、今ある生をたのしめないようでは、次回はないであろう。
税金でもっていかれるよりは、自分で使いなはれ。
所詮は、お金は生きてる間しか、使えない、交換条件でしかない。人として、死んだら、肉体がないので、交換できない。すなわち、肉体、生命は
人間における交換の条件であり、経済の前提であって、お金、貨幣よりも、先にあるものなのだ。
交換条件でしかない貨幣を
優先したがばっかりに人が絶滅したら、
経済どころではなく、人間の絶滅なのである。
普通に生産ライン、
サービスラインを否定して、
自ら、無効化されたに等しい
貨幣を大量に抱えて、自ら役割を果たせず、
ただお金と呼ばれたものを、持った、無力な人が誕生する。人間の経済と、いった方がいたが、やはり、たんなる人ではなく、人間という交換条件にある存在であり、経済は交換からはじまったのであって、
交換する人、働く人、それらが、
上澄みですらある上部の豊かさが比例するなら、
人と人とが交換を前提に
その秩序を前提に貨幣は価値が認められ、
希望があるのであって、
お金だけが実は希望を見せている
わけではないと、
わかってくるだろう。
アダム・スミスを読んでいて、交換ということが、経済のはじまりだと、わかりましたね。動物にはないことです。
お金を使い過ぎると、歯止めがかからなくなって破産する説で、だいそれた大金持ちが退蔵して、0を恐れているとしたら、過剰防衛であり、むしろ、使わないことでもってるお金の価値を下げてはいないかな。
いずれ、使えば、めぐりめぐって、2倍、3倍になる。という経済の暗黙の知に
気づくべきだと思う。
でも、お金、貨幣は交換条件でしかないからね。
お金自体、そのものだけでは、何物でもないんだよ。いずれ、自然に帰るしね。
ルソー経済学
だから、生きて、まわせるうちに、交換条件を流れさせて、全体の自由度を上げて、幸福になろう。
黄色い資本論があるとしたら、ぼくなら、それかも知れない。ルソー経済学の立場から、資本主義を見ると、そうなったりするんだよね。
ただ、地球と自然契約した交換条件の貨幣であり、貨幣自体が地球と自然契約した経済でないと、もともとの場がなくなって、人間がいなくなっちゃうから、経済も何も、活動がなくなる。
それは、資本主義がゆきつく先であったら、悲しいね。
上部の豊かさをつくりだしてるのは、
労働者。
下働きする者がいなくなれば、お金持ちと呼ばれた人は、今の自分を保てなくなる。
ならば、お金持ちは、お金を使いなはれ。
下働きしている人にも、チャンスを。
そうやって、めぐっていって、社会の幸福だよね。そう、思います。
経済は基本的には、結果としてのお金が、めぐっていくことに幸福の原理としてあります。
そういうことを教わりましたが、それは正しいと思います。
経済は交換からはじまり、交換に終わる。お金がめぐって、人類幸せ。
できれば、これ、ですよね。
地球環境持続させながらね。
資本主義が自然契約して、最後はルソーにいたる。
これもめぐりかも知れないね。
https://t.co/GJau0j6jtb
エゴを満たしつつ、エコを満たす。
自然、動物、交換条件である貨幣をめぐった資本主義経済。
世界のサービス、
商品が成り立つための労働、
この労働がなくなったら、金持ちや投資家はなにものでもなくなった貨幣と同じである。
金持ちをコントロールせよ、
労働によって支配するのだ。サービス、労働を提供しないで自立した相互扶助体系をつくり、労働を提供しなければ、貨幣は自然に帰り、
金持ちも淘汰できる。
そうやって原始に帰っていくのだとしたら、言い過ぎだろうか?ルソー経済学というのがあったら、それなのかしらん。
労働者が魂に帰るのがルソー経済学なのである。自然に原始に帰るのだ。
資本主義社会の、労働に対する、労働の無我は自然契約であるなら、労働の無我、自然状態などね。
賃金、雇われることの働き、資本主義における労働の無我である。
労働の無我。
この自然状態から、世界的な
商品、サービスを提供しないで、
上部の大量貨幣保有を
無価値にする意識のめざめ、自然回帰なのだ。
新しい生産、相互扶助、贈与体系、
になれば、交換すら止揚される。
ルソー経済学って、こんなかしらん。
さぁ、これくらいにして、
あそびましょう。
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