セールの自然契約で述べられている、
所有に帰するとき、貨幣的自由のパラダイムがやはりあって、
ひたすら所有を手放すような
回帰が
美学-芸術の底上げであるような
革命がフィジオクラシー、IT化された農営のエリアからみたいな土地の再定義。
セール 自然契約 52ページ
セール『自然契約』 55ページ
これはまさに、今だね。ロックダウンした時に、鳥がさえずり、パンダが生殖しだし、街には小動物がでてきた。緊急事態宣言を迎えて、人は、いずれ環境問題でも同じになると迎えたのではなかったかしら。
動物の場合って、相手が痛がったりしたら、ようやく、気づく、というか、きまり、法律のようなものはやはり、事後的に動物は痛いおもいをして、悲鳴をあげたりして、やばい、痛い、となり、
この痛い-延長で、経済的諸関係における、努力すればいい生活ができる、という努力則を守るために、動物における、痛い-の延長で、法律は事後的に、つくられたりして、法的な支配は
成立する。セールが言うように、理性だが、
動物にもやはり生命をめぐって、決まりがわかるようだから、ルールがあるけど、生体的な法律が
言語-理性化して、条文化されて、言語理性として、
決まりが増えて、努力則を守る感じ、
正統な市場、ルールを守らせる、だな。
やはり、予測できるのも、あるけれども、人間ならね。法は基本的には、事後、二度とないように、言語理性の罰則つきにして、ぜったいにするわけだから、痛い、に動物が出会うあれが、言語連関による、
精神的なものであれ、やはり、動物が危険を感じたり、痛みを感じたりとか、動物でも、さみしくなったりするけれども暗黙のルールがあるような社会性はやはりあるだろうな、くらいかな。
近代を太古や自然状態へ踊らし、感性的なものに組み換える
地球的な芸術としてのエコロジーは
人間自身の高次の解放であるならエコロジーの快楽は貨幣が自然に帰ることでも、あっていい。
禅的創造の自然契約が動物が主役の
人間二番手の地球世界が健康的なら、
創造としての地球環境の芸術。
アートとして、生産される地球環境、めぐり。
創造、アートとしてのエコロジーが、
人間二番手の自信につながる、ある
由来について。
人間が主役じゃない、
別の種への社会性とか、
脱人間中心主義。
人間の二番手的な創造可能性が、
一番を目指さない
二番手、三番手で人類全体が
他の種への「社会性」を持つことは、
アートなのだとしたら、環境を知らない間に
保てる経済システムは、
あるにちがいない。
一番を目指さない
中央が他の生態系である、禅譲された創造であるエコロジーは可能であるか。
老子でいう「道」
もしも、道的創造といったものがあったとしたら、老子は今だにあたらしい。
自然契約が老子の「道」で
あるなら、東洋とセールが
道教でであったりする。
老子の言う「道」道的創造というのかな、道的読み込み、といったものと、
道的創造としてのエコロジー活動。
老子-道-セール。
東洋思想、中国の老子。
老荘。
老子の道のように読み込む、
新しい社会は
女性の快楽で、
最後は目覚めたりしてね。
ガイアって話とか、
セール-ラトゥールだったりとかには
流れはなるかな。
女の人の快楽が
地球環境持続なんだろうな。
地球の悦楽について。
地球が悦楽をずっと楽しめるように、
女性本位の快楽の地球を保つために、
なんだろう。エコロジーは快楽、しかも、根源的な女性の快楽に通じるなどと、男性優位な社会はやはり、もたない。
そろそろ女性が快楽地球を代表しないと、本当の快楽は来ないだろう。
<アソシアシオンは、相互性の原理によってより純化されたより簡単になりより正当なものになれば、容易に支えうるものになり、新たな発展をもたらすであろう>(プルードン)
女性の快楽が最上のシステムであり、
持続可能性なのだ。
地球の悦楽相互関係。
悦楽はエコによる。
やはり、これからは、女性の快楽を
中心とした老子の「道」が最後、女性の存在論、存在の到達として、
地球持続の悦楽が女性中心性によって、
相互関係快楽であることなのだ(!)
エコロジーが悦楽であり、
エロがエコであること。
女体の神秘。
神秘-地球。
ログインしてコメントを確認・投稿する