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2019年01月21日02:48

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犬儒学派の命



 犬儒学派の命

制度的他者について。

制度的に他者はつくられているとする。
それは社会であり、
盛り場など、消費側の時には、
お客様として、階級がなくなって、つながったりして、
平等になるが、
働く側、稼ぐ側になると、
営業側では、制度的に他者はつくられている。

階級をなくすことが、いいのか?
それは盛り場でなくなっている。

差が、あり、
優れた人を、優れた人として、認定する、
「制度」が他者をうみ、
優れたものを、優れたものとしているのが、
「差としての制度的な枠の中」で上と下とが、出来上がる。

一般に仕事ができる人とは
お金をたくさん、稼げる人である。

制度的他者は職業とか、専門的な生命をかけた
業=仕事において、区別して、他者化することで、
忸怩たるものを得ている人において、
存在している一般社会である。

制度的他者は、
実は、貨幣で、つながっているように、見えて、
「中の人」になった途端に起こる。
お客様の時の万能変化的平等から、
営業側の貨幣につながれた奴隷としての業の時に、
隠して、制度的他者は存在する。

制度的他者は一般社会であるところのものであり、

 制度的に他者とすることで、
 上と下とを作り、
 差分、
 配分、横のつながりまで、
 枠、テリトリーを形成している。

制度的に他者はつくられている側面がある。それは否めない。そして、個体の好き嫌いも関係している。制度的他者は社会的なものだが、したがって、個体の好き、とかも・この制度的な枠組みの幻想とも言えるところがあるであろう。貨幣の万能変化する意識の具現化としての貨幣について。制度の壁について。だね。

ある程度は、資本論の受け売りのようでいて、
僕が独自になるとすれば、どこだろうか?

制度的他者は、階級をなくし、
平等にすることで、
なくなる。
この前時代的な解決策は、
意味がなくなり、差をなくし、区分をなくし、
すなわち階級をなくしたところで、(社会的に。)
個体差、人間の種としての、があって、
社会ができいることの証左ではないか、と思われた。今。

個体における、優劣は危険な感じがするが、
歴然とそれは存在する。
社会的に隠蔽しようとも、存在するであろう。
しかし、差があるから、
違いがあるから、それぞれの役目があり、
意味が生じている、と、考えた方が、実は、いいようだ。
これは差別とは違う。
ありのままの制度があるべきだろう。

つまり、制度的他者になるからこそ、
そこから、上に向かおうとして、
下に引きずり落とそうとしたり、
いわゆる「政治ゲーム」が存在することになる。
生存の闘争において、貨幣獲得のための努力は、
凄まじいが、
果たして人類は貨幣に代表されるのであろうか?

貨幣は、もともと、貝殻を使っていた時代、前貨幣時代を持つものだ。
社会的規定が、貨幣を生命原理的な、労働の量を基本とした、
価値として、決めたのが有史あったとしようか。

貨幣は所詮、恣意的なものであったと、
言語についてのソシュールのように、
割切れることもあるであろうか。
などなど、
貨幣を中心とした、
社会の見え方が、
働く側についての言語を
社会科学として、あった場合に、
やはり、制度的他者は、まさに、
生命として、中心を得ようとする。
革命とは、劇場での一場、一場でしか、ないかも知れない。


それぞれの配役の言語的な役割があって、

いつの間にかに、貨幣を媒介するにせよ、
制度的に入社して、
制度的な貨幣の獲得のための枠組みに参加するにせよ、
制度的なリベラルさが、豊穣な経済をもたらすという
資本主義の新たな原理をもたらすのなら、
アナーキーなのに、自律して、
経済はまわる。


リバタリアン的な接近をすら、試みられよう。


制度的他者はある。
しかし、元は同じ人間であり、
国境はない。

国境とは政治的な取り決めであり、
地球は一つだから。


社会言語に関わることには、
貨幣、経済がかかわる。

しかしながら、平然と経済的他者という階級を作り出し、
他者然とした無視を生きる
超然とした無視を生きる者も、明日は我が身なのが、社会であり、
制度的他者はかくして、社会に馴染めないまま、真理を探究し、
路上学派として、
犬儒学派として、まさに、犬のように、生きることもできる。

突然、このようにして、
犬儒学派の命が感じられていい。

制度的他者の存在論について。

それは、いわば、

犬のように、暮らせど、

確かに、真理を探究する者であることにも、
つながってくる。

犬儒学派の命。
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