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2020年08月07日23:52

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ぼくたちの好きな戦争

■「絶対に核戦争はしないでもらいたい」 声優・井上和彦、被ばくした父の原爆体験記録を朗読
(ねとらぼ - 2020年08月06日 18:43)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=128&from=diary&id=6185432

■原爆劇演じ半世紀=「自分の事に感じて」―広島・舟入高演劇部
(時事通信社 - 08月07日 07:30)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6186002

■関口宏・綾瀬はるかが伝える「戦争」の真実 『終戦75年スペシャル』8.15放送
(クランクイン! - 2020年08月07日 08:11)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=100&from=diary&id=6186039

■のん『この世界の片隅に』特番でナレーション「大切に読ませていただきたい」
(ドワンゴジェイピーnews - 08月06日 13:40)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=217&from=diary&id=6185005

 ヒロシマの夏、ナガサキの夏、そして75年目の終戦の日がやってくる。
 毎年夏の恒例のように、戦争特集を組むテレビ局も少なくない。芸能人からも、個人的に様々な発信が行われている。
 元ちとせさんが、毎年、夏限定でナーズム・ヒクメットの『死んだ女の子』を配信していることも有名だが、坂本龍一プロデュースのこの最新バージョンよりも、私たちの世代には、飯塚広訳詞・木下航二作曲の方が馴染み深い。こちらは、最近は殆ど歌われなくなっていて、知る人ぞ知る、という感じになっているそうだ。これもまた「戦争の風化」の例なのだろう。

 戦争を語り継ぐことの難しさと空しさは、年々、強まっているように感じる。「風化」どころか、露骨に「拒絶」を示す人も少なくない。
 昨年、映画『ヒロシマ』が製作から半世紀を経て再公開、TV放送されたとき、そのニュースを知人に伝えたら、まるで親の敵にでも出会ったかのように「観たくない、興味もない」と吐き捨てるように言われた。『火垂るの墓』は絶対に観ないと公言した知人もいる。「反戦映画」に拒否反応を示す人は、かなりな数で存在していると思う。
 彼ら彼女らは、どうしてそこまでの拒否反応を示すのだろうか。おそらくは過度な戦後平和教育が、反作用的に反戦作品への嫌悪を促してしまっている面もあるのだろう。私の子ども時代は、夏休みの出校日はたいてい8月6日か9日に設定されていて、暑い盛りに学校に呼び出され、扇風機しかない教室で、近所のおばあさんがブツブツと呟く空襲の話などを聞かされていたのである。その後は感想文を書かされて、「戦争は嫌だ」なんて綴らなければならないのだから、まあ、これで反戦教育を喜んで受ける子どもがいたら従順に過ぎるというものだろう。
 修学旅行は、小学校が長崎、中学校が広島だった。もちろんどちらも原爆資料館に行かされるのである。帰ってくればやっぱり感想文。もう「反戦を嫌いになってくれ」と言われるも同然だった。
 「反戦」に反対したいわけではない。けれども「うっかりしたこと」は決して言えなかった。「先にゲンバク落としちゃえばよかったのに」などと言おうものなら、居残りで何人もの教師に囲まれてセッキョーである。たまったものではない。ともかく考えを押しつけられること、疑問を抱いても許してもらえないことが、反戦「教育」への忌避感を増大させていたのだ。
 夏が来るたびに、TVで戦後特番が放送されるたびに、あの蒸し暑い夏、四苦八苦して、きれいごとだらけの、言葉が上滑りしてばかりだった感想文を書くのに鉛筆を握りしめていたことを思い出す。今はもうあそこまで押しつけがましい反戦教育は行われていないし、教室にクーラーも完備されているとは思うが、やっぱり反戦ドキュメンタリーなんかを見せられる夏は、いい思い出にはならないと思う。せめて夏休みにやるのだけはやめたらどうか。

 もう一つ、先日、『聲の形』を観ていたときに気づいたこと。あの映画を観ていて感じた「いたたまれなさ」、それは、いじめを看過した周囲、それに自分を重ね合わせてしまうからではないか。実質的に、いじめに加担し、楽しんでいた自分を認識させられてしまうからではないか。それと同じように、「反戦教育」への拒絶感は、実は「戦争を楽しんでいる」自分と向き合わされることに耐えきれないから起きるのではないか。
 私たちは、本当は戦争が大好きだ。実は「戦争」の要素は、世の中のありとあらゆるエンタテインメントの基礎として存在している。小説も、マンガも、映画もアニメも、小規模なバトルから大戦争まで、戦いの要素で溢れている。
 もちろん私たちが大好きなのは、「勝つ戦争」だ。それも、弱い立場だったところからの逆転勝利。最初は強大な敵に蹂躙されるだけだった主人公が、修行を経て、仲間を得て、知謀を重ねて最終的には敵を倒す。敵は「バカな!」と叫んで敗れる。このパターンが大好きだ。『三国志』で「赤壁の戦い」が最も盛り上がるのは、弱小国家の呉と蜀が連携して大帝国の魏を倒すからではないか。
 先の戦争における旧日本軍の「希望的観測」、よく言われる「国力に絶対的な差があり、敗北は見えていたのに、なぜ日本は無謀な戦争に突入していったのか」の解答がここにあるのではないか。「負ける戦争だったからこそ」、日本は勝利を夢見て、戦争に突入していったのである。戦時中、「勝てる見込みはない」という現実主義は「やってみなければ分からないじゃないか」という楽観主義によって駆逐された。連戦連勝だった戦争初期は、国民みんなが勝利に酔い痴れて、神国日本が負けるはずがないという幻想に取り憑かれていた。
 反戦教育は、徹頭徹尾、「現実」を我々に突きつける。あのときも、今も、そしておそらくは未来も、日本が他国と戦争して勝利する見込みはないだろう。その「現実」を突きつけられることが、夢を見ていたい人々にとっては、一番つらいことなのだ。
 確かに、ただ反戦を呪文のように唱えるだけで、どれだけの戦争抑止力があるだろうかとは思う。しかし、戦争を夢見る人々に対して、夢から覚めてもらうために、たとえ憲法を改正しようが、軍隊を保有しようが、武器を増強し、核兵器を持ち、徴兵制を敷こうが「未来永劫日本が戦争に勝利することはない」という「現実」を見せることは必要なのではないかと思う。
 あの敗戦の記録は、未来の敗戦の予兆でもあるのである。

 ちょっとニュースを探してみただけで、これだけの反戦の配信や、反戦番組の放送が実施、または予定されている。終戦記念日を「敗戦」記念日と呼べという意見にも特に反意を示す気はない。日本は敗れたのだ。その現実から目を背けても、実りは何ひとつ得られないと思う。
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