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2020年06月01日22:54

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追悼・ジョージ秋山さん/少年たちへの鎮魂歌

■漫画家のジョージ秋山さん死去=77歳、代表作「浮浪雲」
(時事通信社 - 06月01日 14:01)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=6103254

 十代を除けば、『浮浪雲』を「はぐれぐも」と読めない日本人はいないのではないか――。「ビッグコミックオリジナル」の長期連載マンガとして、水島新司『あぶさん』等と並んで、40年以上に渡ってその屋台骨を支えていたことは誰しも知るところである。国民的マンガだったと言っても過言ではない。
 けれども、デビュー時からリアルタイムで読み続けていた立場で言うなら、ジョージ秋山と言えば、『パットマンX』であり、『デロリンマン』であり、『ほらふきドンドン』であり――『アシュラ』『銭ゲバ』『ザ・ムーン』『灰になる少年』『花のよたろう』だったのである。掲載誌も、「ジャンプ」「マガジン」「サンデー」「チャンピオン」と多岐に渡ったが、ジョージ秋山の名前を見つけては追いかけていた(『ピンクのカーテン』以降、青年マンガに移ってからはちょっと離れた)。

 その登場がいかに鮮烈なものであったか、当時を知る人でなければ想像も付かないだろう。1970年代のギャグマンガシーンにおいて人気を二分していたと言ってよい永井豪――ジャンプに永井豪あり、マガジンにジョージ秋山ありと謳われた二人がマンガ界にもたらした影響は、まさしく「社会現象」であった。
 徹底的にナンセンスを志向したその作風は、それまでの赤塚不二夫に代表される「ユーモア」「ペーソス」のシチュエーション・コメディを一気に過去のものにした。その影響がどれだけ大きかったかは、二人に対して批判的だった赤塚不二夫自身が、ナンセンスの方向に舵を切らざるを得なくなってしまったほどである。

 ところがこの二人は一様に、しかもほぼ同時期に、自身の確立した「ギャグマンガ家」の看板を下ろしてしまう。永井豪は『鬼』『魔王ダンテ』や『デビルマン』で、ジョージ秋山は『アシュラ』で、シリアスマンガに転向し、少年マンガの中に凄惨な残酷描写を持ち込んでいったのだ。
 既に永井豪の方は『ハレンチ学園』の頃からエッチ描写で物議を醸していたが――ジョージ秋山の『アシュラ』の反響は凄まじいの一語に尽きた。平安時代末期を舞台に、飢餓によって人肉食いが起きる描写、特に生みの母によって食われかけた主人公の少年・アシュラの絶望と憎悪――人間を、この世を恨まなければ生きられない凄惨な運命の描写には、子ども心にも恐怖を覚えて(当時は小学二年生)、背筋に走る戦慄を抑えきれなかった。
 幼稚園児が『ハレンチ学園』を読んでいても放置していた私の両親が、『アシュラ』には反応して、連載が終わるまで「マガジン」を買ってくれなくなった。これは我が家だけの現象ではなく、全国各地で起きていたことであるらしい。『アシュラ』1作が、全国規模の「マガジン不買運動」につながっていたのである。

 そのせいで、私が『アシュラ』全編を読んだのはかなり遅れた。確か、最初の単行本は講談社からは出なかったように記憶している。どこかの飲食店か病院の待合に置いてあったのを読んだのだったか――。その頃にはもう中学生か高校生かになっていたので、残酷描写で恐怖に震えるということはなかった。それよりも、法師の自己犠牲に、アシュラの慟哭に、涙が止まらなくなった。
 これは単に残酷描写で話題をさらうことを目的とした作品ではない。命の価値が最も軽んじられた環境の中で、それでも生きることに意味があるのかどうか、それを問うたマンガだ。そう確信した。文学でもここまで鮮烈に生の意味を問いかけた作品があったかどうか、私たちの心臓に楔を打ち付けるようなショックを与えたのが『アシュラ』というマンガだった。
 母は「『浮浪雲』を描いた人が『アシュラ』みたいな残酷なマンガを描くなんてねえ」と言っていたが、私は偉そうに「本質は同じだよ。人間の業を描いてるんだから」と答えた。言葉遣いはともかく、内容は真実だと思っている。

 ジョージ秋山の少年マンガの主人公たちは、みな「少年」だったと思う。少年マンガだから当たり前じゃないかと言われればその通りだ。しかし、ジョージ秋山の主人公の少年たちは、少年であるがゆえに、常に世界の理不尽によって翻弄させられていた。
 アシュラも、『銭ゲバ』の蒲郡風太郎も、『ザ・ムーン』のサンスウら少年たちも、『灰になる少年』の潮も、みな自らの運命から逃れることができず、ある者は悲惨な最期を遂げていた。不断の努力も、どこまでも深い愛も、少年を宿命から救ってくれることはない。少年は大人ではない。ゆえに大人に抗するすべを持たない。少年とは、本質的に「無力」という「業」を背負っているのだ。
 だから、ジョージ秋山が登場人物たちに注いでいる眼差しはどこまでも優しい。描写自体は残酷で冷徹だ。滅びていく少年たちは、最後にみな涙を流す。だがその涙の先には何の希望もない。ジョージ秋山は、そんな彼らに、哀悼を捧げることを忘れない。
 灰になり、風に舞う潮少年を見上げるヒゲ長の眼差し、一人、また一人と殺人カビに冒され倒れていくサンスウら少年たちを見下ろすザ・ムーンの顔を濡らす滂沱の涙、そこには、生を全うできないことを運命づけられている彼らへの作者の想いが込められている。

 努力が報われない少年への慈しみ――それは、連載デビュー作の『パットマンX』に既に見られていた。そして『浮浪雲』の時々のゲスト――特に、たまに登場する坂本龍馬を初めとする幕末の志士たち――若くして命を散らせる者たちへの哀惜の念に至るまで、ジョージ秋山が一貫して描いてきた「思想」だった。
 バッドエンド、アンハッピーエンドが多いジョージ秋山作品の中で、最も悲惨な『アシュラ』に、最後に救いの光を見せて終わらせてくれたことが、私の中では作者から読者への最高の贈り物だったと思っている。

 ライバル永井豪の代表作の多くが映像化されているのに比較すると、ジョージ秋山の映像化は数少ない。技術的なハードルが高いのか、実写化は『浮浪雲』も『銭ゲバ』もちょっと失敗している(『ピンクのカーテン』は未見)。アニメは『浮浪雲』も『アシュラ』も傑作だ。一見をお勧めしたい。
 『ザ・ムーン』のアニメ映画化は、SFファンの多くが望んでるんじゃないかな。実際に鬼頭莫宏『ぼくらの』がアニメ化されたのと同時期にアニメ化の企画があったらしい(みなさんご承知の通り、ジアースはザ・ムーンへの、コエムシは糞虫へのオマージュ)。今からでも企画が復活してくれないかな。

 合掌。



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