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2019年02月18日02:14

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追悼・佐藤純彌監督/職人技のない職人監督だけれども

「敦煌」「人間の証明」佐藤純弥監督が死去86歳
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=8&from=diary&id=5501819

 見出しが「純弥」表記になっているが、近年の映画でのクレジットはたいてい「純彌」表記だった。
 間違いではないのだけれども、相変わらずの記事子の勉強不足を露呈しているようで、訃報に際して、寂しさが弥増すことこの上ない。記事子に故人に対する思い入れが何一つないのはイマドキのジャーナリズムのデフォルトみたいなものだから、仕方がないと諦めるしかない。
 それにしても、事実を事実として伝えるニュースとしての使命すら果たしていないのだものなあ。どうしたって寂しさが募るばかりなのである。

 故人をディスりたいわけではないが、コメントにも散見している通り、佐藤監督には名作と言えるほどの映画はほぼ皆無に等しかった(『ゴルゴ13』以降の20本ほどを観た上での感想である)。
 『男たちの大和』を名作名作と褒め称える声もあるが、そんなのはネトウヨの贔屓の引き倒しであるから、耳を傾ける必要もない。久方ぶりの角川映画への復帰ではあったが、往年の『人間の証明』『野性の証明』同様に、「大作だが中身がない」という批判の方が大半だった。他の「超大作」も同様の評判で、一流の俳優を使い、世界を舞台にしてはいるものの、人物描写が薄っぺらで、画面の高揚感にも欠け、感動やカタルシスからは縁遠いものばかりだった。

 佐藤監督が大作を連発していた当時は、なぜ失敗作ばかり撮っているのに監督として起用されるのだろう、と疑問に思っていた映画ファンも多かったと思う。しかし、あの大珍品『北京原人 Who Are You?』を撮ったことで、私には何となく腑に落ちたものがあった。
 基本的に、佐藤監督は映画のオファーを断らないのだ。近年の三池崇史も殆ど企画を断ったことがないようだが、そうした「何でも屋」な点、駄作を連発する点、なのに国際的には名声を博している点で、両者は非常に似通っている。「あえて傑作を作らない」姿勢は世界に受け入れられやすいのだろうか(笑)。
 そして、佐藤監督は、どんなに製作が困難だと思われる題材であっても、その困難さを自覚しない能天気さと力技で映画を撮り続けてきた。南極に行けと言われれば行くし、シベリアに行けと言われれば本当に行ってしまう。予算がオーバーして監督が降板、にっちもさっちもいかなくなってしまって、引き受け手がなくなった作品であっても、恐らくは「ああ、いいよ」と気楽に首肯して後釜を引き受けてきたのだ。
 それはよく言えば佐藤監督の人柄の良さを表していると言ってよいだろうが、必ずしも監督としての力量とは比例しない。悪く言えば何も考えていない。けれども、佐藤監督のそうした適当さが、映画プロデューサーにとっては、「最後の頼みの綱」になっていただろうことは想像に難くない。

 『超能力者 未知への旅人』とか、本気でハンドパワーを信じて撮ってんのかな、この監督、とか首を傾げたものだったが、超能力が真実かどうかなんてことも、佐藤監督にとってはどうでもよいことだったのだろう。題材へのこだわりのなさが、「どんな題材でも佐藤監督なら映画にしてくれる」という「信頼」を築くことになり、次々と企画を持ち込まれるきっかけとなっていたのだ。
 たとえその出来上がりが『敦煌』や『おろしや国酔夢譚』のように、原作のダイジェスト版でしかないものになってしまったとしても、映画が頓挫するよりは佐藤監督の手で完成させることを各映画プロデューサーは選択したのだった。

 その『敦煌』が、小林正樹監督、次いで深作欣二監督を経て、佐藤監督に持ち込まれた経緯は興味深い。70年代から80年代にかけて、世界規模の超大作を任されることが多かったが、それらは実はまさしく「いざと言うときの佐藤監督頼み」で実現したものが多かったからだ。
 『未完の対局』は中村登監督の死去に伴う代理、『空海』は増村保造監督降板の代理、『人生劇場』は原作者の遺族とのトラブルで、深作欣二の撮影が間に合わず、佐藤監督と中島貞夫監督がピンチヒッターに駆り出された。
 こうなると、もう八面六臂の大活躍というか、「神様仏様佐藤監督様」とでも言うべき大車輪な助っ人ぶりである。

 『人間の証明』『野性の証明』のプロデューサー、角川春樹の回想によれば、佐藤監督は黒澤明監督の「代理」である。映画製作に熱い情熱を注いでいた角川プロデューサーは、自社制作の映画の監督をぜひとも黒澤監督に、と実際に何度もオファーしたらしいのだが、まったく相手にされなかった。70年代の黒澤監督は既に老境に入り、自身の企画でしか映画製作をする気がなくなっていたから、断るのも当然ではあったが、さて、困ったのが、じゃあ「世界のクロサワに代わる監督」なんて、誰がいるのかってことになる。
 「メディアミックス」なんて言葉が全くなかった時代である。ただでさえ「出版業界の異端児が映画業界にしゃしゃり出てきやがって」と悪口をたたかれていた角川映画で、ましてや「黒澤監督の代わりに」なんてオファーを受けるお人好しなんて、そうそういるはずがない。
 それを佐藤監督は引き受けた。しかも、「空疎な大作」と評判が惨憺たるものであったにもかかわらず、続けざまに映画を撮り続けた。人が良すぎると言うか、悪く言えば「いい加減」なのだろうが、そのいい加減さが画面に横溢していて、だからつい「佐藤監督作品なら」と映画館に足を運ぶことになっていた。
 『北京原人』が大コケしたために、角川以外の映画会社は総じて「もう佐藤純彌の時代ではない」と全くオファーしなくなってしまったが、あれだけ重宝しておきながら、掌返しとはこのことである。

 駄作であるということと、好きであることとは別である。佐藤監督同様、「職人監督」と呼ばれることの多かった深作欣二監督作品には、深作監督らしい外連味が常にあって、「ああ、こんなところに深作印が」と微笑むこともできるが、佐藤監督の演出にはこれといった特徴はない。言っちゃあ悪いが「撮ってるだけ」の人で、こだわりが感じられない。
 佐藤監督がこだわったのは、たとえば『北京原人』のときに、本田博太郎の叫び声を「ウパー!」にしたことなどが挙げられるが、なぜそんなどうでもいいことに拘泥したのか、理解に苦しんでしまう。しかし、そういういい加減さが、私は好きだったのだ。

 こだわればこだわるほどに映画がおかしくなっていくのは、『人間の証明』でも顕著だった。
 松山善三の脚本は、過剰な説明を排しており、「演出力のある」監督なら、行間に情感を溢れさせることができる名脚本だった。しかし「脚本が読めない」角川春樹と佐藤監督は、懸賞で入選させておきながら、これでは映画にならないと松山脚本を無視して、現場で「過剰な説明だらけ」のセリフをでっちあげて、映画をテレビ的なスケールの小さい冗長な作品にしてしまった。
 そのくせ、松田優作がアドリブで「母親って何なんでしょうね」とつぶやいたセリフを無駄だとカットしたのだから、切るのはそこじゃないだろうと突っ込みたくなる。映画がどうしたら映画になるのか、根本的に分かっていなかった人なのだろう。

 『野性の証明』のオーディションでは、当時小学生だった三輪里香の起用にこだわった。そこで薬師丸ひろ子を強烈に推していた角川春樹と対立することになるが、薬師丸のスター性を確信していた角川は、プロデューサー権限で佐藤監督を押し切って、薬師丸を合格させた。実際に薬師丸を演出してみて、佐藤監督はその才能の萌芽に驚嘆し、角川春樹に自分の不明を謝罪したという。その後の現在に至るまでの薬師丸の活躍ぶりは、皆さんご承知の通り。
 三輪里香の方は、TV版『野性の証明』や映画『金田一耕助の冒険』に出演したものの、角川三人娘に数えられることもなく、すぐに引退してしまった。結局、角川春樹の方が役者を見る眼においては慧眼であったということになるが、最終的に「自身のこだわりを捨てた」佐藤監督の気持ちの切り替えと素直さも、称賛されて然るべきだと思う。佐藤監督が「お人好し」でなかったなら、ここで自分の意見が無視されたと立腹して、『野性の証明』からも監督を降板していたかもしれない。

 「こだわりを感じられない」がゆえに、「佐藤監督の名前に惹かれて映画を観る」経験をしている映画ファンも、そんなには多くなかっただろうと思う。おそらくは今後とも。この記事の日記やコメントを見ても、作品一つ一つについての感想は多いが、「佐藤監督」個人へのアプローチや思い入れを感じさせるものは少ない。そう言えばあの映画も佐藤監督だったなあと思い返される程度だ。
 それでも、一本だけ、佐藤監督のこれは正真正銘の「傑作」と呼んでよい映画がある。未見の方がいらっしゃれば、ぜひ観ておいていただきたいのだが、佐藤監督を「世界の名匠」と勘違いさせることにもなった『新幹線大爆破』である。これもまた映画に至らなかった黒澤明監督の『暴走機関車』(実話に基づく)が元ネタで、本当にどれだけ「代打」が多いのかと(苦笑)。
 新幹線ひかり号に、何者かによって速度を落とすと爆発する爆弾が仕掛けられる。博多に到着するまでの七時間の間に、無事に爆弾を撤去して犯人を逮捕できるかを描いたサスペンス映画だ。国内では当時はやり始めていたパニック映画の二番煎じと思われて、今一つヒットしなかったが、海外では大いに売れた。
 海外版は、主演の高倉健の「背景」を丹念に描いたシーンをカットして、ひたすらアクションとサスペンスに特化した短借版として公開されたが、これが功を奏したらしい。日本人的な情緒過多な演技、表現は、パニック映画には不必要である。ところが佐藤監督は「オリジナルの方が面白いのに」と思っていたという話だから、この人、やっぱり映画がよく分かってはいなかったのである。

 懐かしのハードボイルド・サスペンスドラマ『キイハンター』の主題歌『非情のライセンス』の作詞も佐藤監督。映画はピント外れな作品の方が多かったが、この詩はドラマ主題歌史上に残る名作詞だと思っている。

 合掌。







※『人間の証明』のトリックも落ちも予告編でばらしていますので、視聴にはお気を付けください。

















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