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2018年01月19日04:54

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不透明さを増す市原幹也と、藤原ちから、野村政之らの卑劣な印象操作

 いっかな市原幹也の動向が判然としない状況が続いている。
 もちろんこれは「世間的に」という意味である。今でも生きて呼吸をしているのだろうが、本人も、またその周囲も、「市原は今、これこれこういうことをしていますよ」という情報発信をしようとしないから、結果的に先日の日記に書いたように、「雲隠れ」状態になってしまっている。当然、これは意図的にそうしているのだろう。
 常識的に考えるなら、何か不祥事を起こした人間(あるいは組織)が取らなければならない行動は、自らの不透明性をなくすことだ。自分の罪を認め、反省の姿勢を示すつもりなら、自分の行動を出来得る限りオープンにしていかないと、信頼は得られるものではない。なのに、情報を遮断するような行動を取られていては、果たして本気で被害者たちに謝罪する気があるのかどうか、疑わしいと判断せざるを得ない。
 
  これまで、#MeToo で確認することのできる、市原の被害者は、最初に告発した知乃さん、葭本未織さん、葭本さんの呟きで言及されたラジオパーソナリティーの女性、そして私の知人の四人である。
 時系列的には、北九州時代が知人、ラジオの人、横浜時代が知乃さん、葭本さんという順序で被害に遭っている模様で、その期間は十数年以上に及んでいる。判明しているのが氷山の一角に過ぎないことは間違いないだろう。
 実際にどれくらいの被害者がいたものか、加害者本人の「自白」でもない限りは推測の域を出るものではない。しかし、私の知人で、演劇関係者は数えるほどしかいないにもかかわらず、その中の一人が被害者、一人が被害未遂、一人が市原と共演関係にあって、彼の行状を知りつつ黙認していたというのだから、この福岡の演劇界における市原の「浸透度」はいったい何なのだろうと頭を抱えたくなる。

 いつでもどこででも、これだけ派手にやらかし続けていれば、福岡の演劇人が、あるいは市原と関係があった人々が、「知らなかった」人間ばかりのはずはない。なのに彼らの殆どが、自分はセクハラ行為とは無関係だと強調するか、全くの沈黙を守り続けるかのどちらかしかしないのがどうにも解せないのだ。前回の日記にも書いたように、市原のセクハラを知りつつ看過したことを恥じて自らを責めたのは、私の知人一人だけである。他の「知ってたやつら」は、今どこで、何をしてるんだよ。
 中には、市原が誘ったか誘われたかで、一緒にセクハラ行為に及んだ演劇関係者もいるはずなのだ。市原はその人物の名前を明かしてはいないし、本人が名乗り出て謝罪する気配もない。市原同様の行為に及んでいながら、今ものうのうと「演劇人」の仮面を被り続けている人物が、福岡の演劇界に居残り続けている可能性を否定できないのである。

 こうした泥沼のような状況がありながら、私の日記を読んだらしい複数の人物が「たかが一人の演出家のセクハラについて、いちいち反応する必要があるか」という趣旨の呟きを漏らしていたから、始末に悪いことこの上ない。これは現実が見えていないか、現実を糊塗したいかのどちらかであろう。
 こちらは、市原の一件もまた、さらに福岡の演劇界を、いや、日本の小劇場全体を覆っている「セクハラ・パワハラ体質」の「氷山の一角」であることを糾弾しているのである。でなければ、第二、第三の市原幹也が現れる。それは何としても防ぎたい。これ以上、演劇に携わりたいと希望する人々が、若い芽を摘み取られ踏みにじられるような状況に置かれ続けることから開放させたい。それしか願ってはいない。

 そのことはしっかり以前の日記にも書いて強調していたのだが、マトモな反応はこれっぽっちもなかった。暗に、福岡の演劇人や、全国の小劇場関係者たちは(まあ、全員が全員、私の日記を読んでいるはずもなかろうが、誰ぞがリンクを貼ってくれたおかげで、結構全国規模で読まれてはいるようである)、自分たちがそのセクハラ・パワハラ体質の中にどっぷりと浸かって恩恵を受けていることを認めてしまっているのだろう。

 「市原に動きがない」と述べはしたが、間接的にではあるが、何となくな動向だけは伝わってきている。
 青年団の主宰である平田オリザ氏が、劇団HPでの日記で、次のようにコメントしている。

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青年団/主宰からの定期便 『さよならだけが人生か』追加公演決定、善光寺から善通寺へ
http://oriza.seinendan.org/hirata-oriza/messages/2018/01/08/7663/


(前略)
 さて、セクハラ問題の続報ですが、昨年末12月27日付で市原幹也氏から謝罪と経緯の説明の書簡をいただきました。それ以前に、謝罪をしたいとの連絡が人づてに入ったので、とりあえず書簡での連絡をお願いしていました。
 年が明けてから関係者、被害者との調査、調停作業に入るようです。また、関係する諸機関も、被害が他にないかどうか調査を始めているようです。
 被害者の中には、公表を望まない方、話したくない方、そもそもそのようなワークショップなどに参加したことを忘れたい方、いろいろな方がいらっしゃるかと思います。ここからは、たいへん繊細な対応が求められる時期に入ってきます。
 直接の被害者の方たちに比べれば、私たちの受けた名誉毀損は、傷としては遙かに小さなものですので、今後しばらくは、市原氏に関する直接の言及は控えておきたいと考えています。
(後略)

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 市原自身の直接の説明ではないため、詳細が判然としないことは仕方のないことかもしれないが、腑に落ちない点が多々ある。
 「年が明けてから関係者、被害者との調査、調停作業に入る」とあるが、知乃さんには昨年のうちに謝罪の場を設けることを市原は伝えていたはずである。それが年明けにずれ込んだということなのだろうか。そして実際に年が明けて半月が過ぎたが、知野さんのTwitterに、市原から謝罪があったとの報告は見られない。
 それは単に書いてないだけだとも考えられるが、私の方にはやはり連絡の一つもないのである。あっても拒否すると前の日記に書いたから、敬遠されているのかもしれないが、市原に本気で謝罪の意志があるのなら、何らかの打診はあってもおかしくはないだろう。野村政之が散々リンクを貼ってくれたのだから、市原が私の日記を読んでいないはずはない。
 「関係する諸機関」というのは具体的にどこの何という機関のことを指しているのだろうか。横浜市か、北九州市か、市原は福岡の主だった劇団には俳優として、演出家として、頻繁に関わっていたから、そうした劇団のことを言っているのか。
 そして、やはりそうした「機関」から、私への問い合わせは全くないのである。調査や謝罪作業が本当に行われているのかが疑わしいだけでなく、市原が自身の「復帰」を前提にして、事態の「風化」を望んでいるのではないかという前の日記での私の推測に、いよいよ信憑性が増してきているように感じている。

 #MeToo運動は、日本においては急速に沈下しつつあるように見える。告発者が一時期ほどには続いていないことが原因だろう。勇気ある告発者たちが、逆にバッシングを受けたことで、かえって「泣き寝入り」を強いられつつあるのではないか。
 先日のカトリーヌ・ドヌーヴやブリジット・バルドーらの「過剰反応ではないか」「売名行為ではないか」といった批判が、日本でもより大きな声となって、告発した被害者たちを追い詰めようとしている。伊藤詩織さんが踏ん張り続けているおかげで、かろうじてこの話題が継続性をもって報道され続けてはいるが、市原の件に関しては、もう殆ど公で語られることはなくなりかけている。
 「風化」を期待している連中は、風向きが自分たちに向いてきた、とほくそ笑んでいることだろう。

 演劇センターFで市原とつるんでいた藤原ちからは、Twitterでこう呟いている。

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藤原ちから‏ @pulfujiko · 1月6日

 野村政之さんとは、この年末年始もほぼ毎日やりとりを続けてきました。しんどいところを言葉にしようとしてくれています。彼の姿勢はとても真摯で誠実なものです。
 事件発覚後、関係した人々と個別にやりとりしながら、自分に何ができるのかを探ってきました。とても複雑な領域は依然として大きくあります。それはそれとして、最低限必要なメッセージは発したいと、時機を見てきました。しかし残念ながらSNSでは無理かなと思い始めています。ただ、もちろんこれは風化や忘却をしていい話ではないと認識しています。問題の本質を見極め、今後に向けて、後世に向けて、考えを深めていきたい。そうした対話ができるような場をつくろうと、近年、模索していたところではあったので、まずはそれを続けていこうと思います。
 法治国家としては信じがたい、中世の魔女狩りみたいな荒んだ場になっているSNSを、「公共性」を担保する場として捉えるのはかなり厳しいと思います。ではどのようにして言論を積み重ねることが可能なのか。見えている世界が違う人同士が、どのようにして対話できるのか。
 地道すぎて、そんな時間かかることを!と思われるかもしれないけど、わたしは、やっぱり顔を見合わせて話のできるような場をひとつひとつ重ねていくことが大事だと、真剣に思っていますし、それを各地でやっていきます。もちろん会える人の数に限界はありますが、人間は、有限なので。
 いっぽうで、書き言葉は、こうして遠くまで飛ばすことはできます。でも、飛ばしている人も、それを受け止める人も、生きた(あるいは、かつて生きていた)人間である、と感じながらその授受ができるような土壌をつくっていかないと、もう、「言論」は滅びるしかないと感じています。

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 「風化させてはいけない」旨を述べながら、市原への告発、糾弾を「魔女狩り」と呼んでいる点は、市原の加害の実態を、いかにも大したことがない行為のように印象操作しようとしていて、気持ちのいいものではない。カトリーヌ・ドヌーヴも同様の発言をして、性被害を助長するものだとフェミニストたちに猛烈なバッシングを受け、謝罪に追い込まれているが、藤原ちからにそれを期待するのは難しいだろう。
 一般論として、「SNSを魔女狩りの場にしてはならない」と主張するのは間違いではない。江川紹子さんも、あくまで「一般論として」そのことは指摘されている。しかし、実際に「被害」があっている具体的な個々の事例について、告発をやめさせる目的で、「魔女狩り」云々を持ち出すのは決して適当だとは言えない。
 市原について言えば、彼の正体は本当に「魔女」だったのだ。無実の罪で火刑に処された無辜の民ではなく、実際に多くの人々をたぶらかし、その毒牙にかけてきた悪魔の使徒だったのだ。そいつが今、罪を逃れようとしていることを、そしておそらく告発がなければ更なる犠牲者を物色していただろう状況を、どうして看過できるというのか。そしてそれを糾弾しようとする被害者やその関係者を、否が応でも貶めようとするその意図はどこにあるのだろうか。

 FPAPの高崎大志も、「窃盗犯を殺人犯と誤認して処刑したくもないし、強盗を無罪で逃したくもないというのはみんな思っている事だと思う」と呟いていたが、ブログの方では「人民裁判」だ「言論弾圧」だと持論を展開させていたから、市原については「窃盗犯」を「殺人犯」に仕立てていると見なしていると思しい。
 なぜ彼らは、そうした詭弁を用いてまで市原を擁護しようとしているのか。高崎には劇団の女性制作者へのパワハラの過去があるし、藤原は演劇センターFのメンバーであった。そこに「仲間」意識が働いていないなどと、どうして言えるだろうか。

 藤原のこの記述は、私の日記を引用した上で語られている。
 従って、明らかに「被害者を黙らせたい」意志の表れであると判断できる。いかにもおためごかしの注意喚起を装いながら、事実は言論弾圧を行おうとしているのだ。
 「言論」を滅ぼそうとしているのは、藤原ちから、お前じゃないか。

 私の先の日記に難癖を付けてきた青年団の野村政之もまた、藤原が保障するような「誠実」とは全く裏腹の態度を示してきている。

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けんちん・F氏の作り話
https://note.mu/nomuramss/n/n37d71df645c1


1/9追記
http://open.mixi.jp/user/1846031/diary/1964600688
けんちん・F氏がウソを認め、ウソをついてもいいと主張。
私はこの記事で、事実を大事にすることの重要性を述べたつもりでした。
この方と議論することよりも、再発防止などの取り組みを具体的に進めていくのが大事だと思うので、あまり騒がないことにしようと思います。
今後、私の動きの結果がちょっとずつ出てくると思うので、それも含めて、私が誠実であるかどうか、一般読者の方にご判断いただければと思います。

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 いきなり、私が「ウソを認め、ウソをついてもいいと主張」したというとんでもないウソ、デタラメを述べていて、目を丸くしてしまった。
 私が書いたのは、市原と野村との間でやりとりがあったことを、当然、電話でやり取りしたのだろうと判断したということであって、虚偽を書いたわけではない。元の野村の日記を読めば、「やり取りの方法」を野村は「全く書いていない」のだから、これは推測の範疇内である。むしろ、これをウソだと断定する方が、著しく判断力に欠けている。
 そして、「そんな方法云々の問題を指摘しているわけではなく、加害者に慰めの言葉をかけることの方が、被害者の感情を逆なでする行為ではないのか」という私の問いかけについては、野村は全く回答することができなかった。
 「事実を大事にすることの重要性」を述べながら、野村は自身の言動がどのような影響を与えるかという「事実」については、ほっかむりを決め込んだのである。これのどこに「誠実さ」が認められるというのだろうか。

 散々、謝罪を要求すると「議論」を吹っ掛けてきておきながら、全く反論できないと見て取るや、「この方と議論するよりも」と逃げを打つ当たり、先の日記で彼を「最低の人間」と評したことは当たっているとみて間違いなさそうである。
 藤原ちからもそうだが、彼ら演劇センターFのメンバーは、対外的には市原の「同類」だと見なされているという自覚がない。すぐに「自分は当事者ではない」と言い募るが、その発言を信用する根拠がないということに気が付いていないのだ。
 市原の行為を看過していたか、あるいは加担すらしていたのではないかという疑念を持たれていると感じていたなら、これまでにもっと「誠実な対応」を取っていたはずである。市原の告発直後に演劇センターFの活動停止のアナウンスもできたであろうし、私への被害者に関する問い合わせも行えただろう。それらが何もない。

 「私が誠実であるかどうか、一般読者の方にご判断いただければと思います」とはもう笑うしかない捨て台詞で、これまで誠実さのカケラも見せて来なかった人間の、何を信用せよというのだろうか。
 第一この台詞は、のんさんが野村に向けて、「野村の言うことが正しいか、けんちん・Fの言うことが正しいかは、読者の判断に任せればいいのではないか」と提言していたにもかかわらず、野村が「わたしよりけんちんの方を信用するのか」と拒絶していたものだ。今さらどの口がそれを言うのだろうか。
 こうした卑怯な逃げを打っても野村が平気でいられるのは、先の日記にも書いた通り、どんなウソ、デタラメを書いても、「鹿を馬と言う」追従者はいると確信しているからだろう。
 もしかしたら、野村は本当に、市原ほどにはセクハラ、パワハラ行為には及んでいないのかもしれない。そのように好意的に解釈したとしても、こんな嘘八百で釣られる客がいると考えている点で、ワークショップの参加者や一般客を思い切り舐めてかかっている。「演劇」を利用し、彼らを騙して日銭を稼ごうとしている点では、やはり市原の同類と見なさざるを得ない。

 先の日記にも書いた通り、ことの本質は野村と私のどちらが正しいかなどという卑小化されたものではない。
 ここに、市原のセクハラの被害者たちがいる。なぜ、彼女たちは被害者にならねばならなかったのか。そこに問題の本質があるはずなのだ。
 もちろん、それは市原のせいだと、彼個人の問題に収斂させてしまえばことは簡単である。野村たち「関係者」は、実際に「当事者ではない」と主張して「逃げ」を図っている。
 あるいは、「被害者にも落ち度があったのではないか」と非難する向きもあるだろう。こうした性暴力の被害者たちには、必ずと言ってよいほどに加害者を擁護し被害者を逆バッシングする声が聞かれる。

 よろしい、それらの声を、一応は認めてみよう。犯罪のプロファイリングで重要視されるのは、「犯罪を誘発する環境」がそこにあるという「事実」だ。彼と彼女をとりまくあらゆる要素が、犯罪を誘発する素因となりうるのだ。
 どこにでもセクハラはあるというが、「演劇」という特殊なオケーションにおいては、それを構築していく過程で、セクハラを誘発する素因が特に夥しく集中しているはずなのである。
 ワークショップという指導の形態は、演者と指導者の間の距離を縮めるだろう。その密室性によって、外部からうかがい知れない状況だって作り出す。集まってくる女性たちは、舞台に立つことを夢見るくらいだから、顔だちもスタイルも素敵な人が多いのではないか。練習中は動きやすい格好をするから、それらを指導者は常に見せつけられることになる。作品を作り上げていく一体感と、心が通い合う感覚、これも指導者に彼女たちへの思いを募らせる要因になるだろう。
 そして、「指導者」は思う。彼女たちの、スターダムへと駆け上りたいと思う上昇性、これを利用すれば、いくらでも女性を自分のものにすることができるのではないかと。悪いのは誰だ? 自分ではない。あんないい体をしている女たちの方だ。自分の誘いに乗るような欲に塗れた女たちの方なのだ。あるいは「演劇」というシステムそのものだと。
 「演劇」の恐ろしさは、被害者へのバッシングとして語られがちな「被害者の落ち度」、それら一つ一つの要因が、否定できない現実として「そこにある」ということだ。それが「一万人の市原」を作り上げる土壌となっている。

 しかしである。
 たとえそれらの素因がどんなに重なろうとも、セクハラに至らせないための最重要な素因が「演劇」にはある。
 それは、「演劇を作ることが、人が生きていくという証だ」という認識だ。
 市原にはそれが全く欠けていた。
 ウソ、デタラメや妄言を吐き続ける野村政之にも、当然そんなものはない。当人はあると言い張るかもしれないが、到底信じられるものではない。事態を知りつつ、沈黙を決め込む福岡の演劇人たちも同様だ。
 生老病死の四苦を超えてなお、人が生きていく証を残して行くとしたら、それは何か、その意識があれば、セクハラによって、「人を殺す」ことができるはずもないのだ。

 「事件」は今後も続くことだろう。「演劇村」というムラ社会もまた、セクハラを肥え太らせる土壌になっていることは間違いない。そしてその多くは、表沙汰になることもなく、「泣き寝入り」の被害者ばかりを増やし続けるだろう。「セクハラ防止」を唱える演劇人たちが、未だに具体的な方法を提示しようとしない事実がそれを物語っている。
 けれども、「あなた」はもう気づいたはずだ。「演劇」が本当に、この国で、復活するとしたら、それは適当で空疎な言葉を重ねる市原幹也たちのような人間の手によってなされるものではないと。息を吐くようにウソをつく元演劇センターFのメンバーたちによって作られるものではないと。
 人の、懸命に生きようとする姿を、演劇という形に昇華させようと日々闘い続けている人間と、そうでない人間とを見分けることのできる力、それを「あなた」が身に着けていくことが、演劇が生き残っていくための最重要条件となるのだ。

【付記】
 市原幹也の一連の行為について、私はほぼすべての日記で「セクハラ」という表現(時々性暴力、性被害)に留めています。
 これは、聞く人によっては、カトリーヌ・ドヌーヴが「誤解」したように、「女性を口説いただけ」「ちょっと体に触れただけ」と「軽く見てしまう」危険性も孕んでいます。
 市原の行為は、実際にはもっと酷いもので、その意味では適切な表現とは言い難いものです。
 しかしながら、私としては、被害が身内に関することであるだけに、これ以上に過酷な表現はあまり使いたくはないという心情があります。
 あえてセクハラという表現にとどめておいていますが、この日記を読む人には、世間的な軽いイメージでは捉えないでほしいと願っています。
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