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2018年01月07日23:59

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セクハラ・パワハラは本当に止められるのか

■セクハラ撲滅へ!女優ら運動を開始
(シネマトゥデイ - 2018年01月06日 19:44)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=14&from=diary&id=4933127

> 同運動では、セクハラを黙認する企業に対して罰則を科す法整備も目指していくそうだ

 翻って、本邦の #MeToo 運動はというと、例えばセクハラ被害を名指しで告発された市原幹也が「潜伏」を図っているようで、糾弾もうやむやになっていきそうな気配である。
 日記で何度か「予言」した通りの展開になりつつあるので、ちょっと暗澹たる気分でいるのだが、その件については、また稿を改めて詳述したい。

 ここで話題としたいことは、このセクハラ撲滅のために参集した人々が、総勢300名に上るという規模の大きさについてである。クニの大きさが違うのだから、それも当然とお考えになる人もいらっしゃるだろうが、それにしても日本の方の告発の数の少なさが気になる。どの業界にだって、セクハラ、パワハラ野郎は少なくないと思われるのだが、「ミー・トゥー」という声はすっかり沈静化して、伊藤詩織さんの件がずっと取り上げられている状況だ。
 もちろん、女性が被害を受けっぱなしの状況に怒りを覚えている人は多いだろう。しかし彼らが――私たちが、被害者の味方になるためには、まず彼女たちが立場を明らかにして、加害者を告発しなければならない。それがいかに困難か。MeTooは、詩織さんの件ばかりを取り上げているのではない。実名公表したその件しか取り上げようがないのである。

 表面化しているのが詩織さんの件の他、少数だからと言って、この国が女性にとって安全な国だと錯覚してしまってはいけない(女性の皆さんはそうは仰らないだろうが)。女性の人権が踏みにじられることが少なくないこの国の現状では、被害者はやはり声を挙げることのリスクの方を考えてしまう。悔しい思いをしながらも、涙を呑んで、告発を断念してしまった女性は、おそらくは「あなた」の隣にもいるのだ。
 そして、詩織さんのように、勇気を出して告発した被害者が、逆にバッシングを受けてしまう状況も、この国特有な現象なのではないか。

 欧米だって、フェミニズム運動に反対する声はあるって? しかし、先ほどの「300人」という数字にも表れている通り、あちらでは、被害者の人権を絶対に守らなければならないと参集する「味方」も決して少なくはない。声を挙げれば、味方は必ず現れる。そういう国だ。
 それに引き換え、日本の場合はバッシングの声が被害者の声をかき消すほどに増大化してしまうこともしばしばだ。ちょっとやそっと、味方が現れても、その攻撃の声の大きさに、被害者の心が折れてしまうこともある。そうして「泣き寝入り」のケースばかりが増えていくことになるのだ。

 日本の性犯罪は、統計的には国際的にまあまあ低い値を示している。2005年の人口比に対する女性の性犯罪被害率は1.6%。これは世界第二位の性犯罪国家であるアメリカの3.8%のちょうど半分だ。しかし、ハンガリーの0.1%に比べると決して低い数値とは言えない。これに「泣き寝入り」の数が加わったとしたらどうなるか。日本の性犯罪被害は、実は膨大な数に上っているのではないだろうか。
 性犯罪自体は少なく見積もられていても、世界経済フォーラムが示した「ジェンダー・ギャップ指数」は、144ヶ国中、114位。社会進出している女性の数が、特に政治家の数が著しく低いことがその理由だという。旧態依然とした、女性を家庭に押し込めたがる意見はネット上でも決して少なくはない。差別をしないと言いつつ、女性に差別的な態度を取る二枚舌の男性に、辛酸を嘗めさせられた経験を持つ女性も、いくらでもいることだろう。
 彼女たちは沈黙する。そして、その沈黙が、新たな被害者を生んでしまう。傷ついた被害者たちに、「あえて名を出して告発せよ」とは言えない(言ってみたことは何度もあるが、首を縦に振られたことはまずない)。それが、この問題を複雑化させている。

 先日も、市原の件に絡めて、他にも福岡の演劇界にセクハラ、パワハラが蔓延している実例として、FPAPの高崎大志の件をTwitterで取り上げた。これは被害者の近くにいた人物が、被害者本人の了承を取った上で告発したもので、公的に判明した稀有な例だ。だからこそ事例として引用したのであるが、被害者の知人から「名前を出すな」というクレームを頂いた。
 本人の弁を聞いたわけではないのだが、どうも被害者は、過去に名前出しをしたことを後悔しているらしいのである(憶測でしかモノを言えないのは、非難してきた人物が、詳しい事情を教えてほしい旨を伝えたのに、無視されたからである)。
 こちらとしては、パワハラの明確な実例として挙げたかったのだが、これも結局は「被害者が泣き寝入りしたがっている例」として扱わざるを得ないことになってしまった。これでは福岡の演劇界には、セクハラもパワハラもない、と錯覚されてしまう事態になりかねない。

 そういう「平和な演劇界」にしたい人間が、この界隈にはごまんといるのだろう。彼らは躍起になってこちらを攻撃してくる。加害者がまるで被害者のように振る舞って、周りの同情を買おうとする。卑劣な手段を取って、恥じるところがない。
 ここで手を緩めるわけにはいかない。「泣き寝入り」をしてしまった被害者たちも、後悔に苛まれている。あの時、自分が声を挙げていれば、次の被害を食い止められていたのではないかと。

 だとすれば、勇気を出さなければならないのは、まずは被害者の周辺にいる人間なのではないか。また、加害者の知人も、彼の行状を知りつつ看過したことに罪の意識を抱くことになる(抱かない人間もいるが)。「あなた」の「関わり合いになりたくない」という気持ちも、心情的には理解できる。いじめの現場を目撃して、うっかり注意をしようものなら、今度は自分がいじめの対象になる。それが怖い。それは誰にも責められることではない。
 でも、それは、「誰かが止めなければならないこと」なのだ。どうしてそれが「あなた」ではないのだろうか。

 吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』の冒頭で提示された問題はそれである。私たちの心の弱さを、誰も責めることはできない。しかし、私たちは悩む。このままでいいのかと苦しむ。自分が動けないことについての言い訳を考えている自分に嫌気が差してしまう。
 そして気が付く。前に進むしかないのだと。
 私が声を届けたいのは、前を向いて歩こうとしている人々に対してである。
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