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2017年12月31日04:05

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今そこにいる、一万人の市原幹也

音楽の窓から世の中を眺めて/セクハラ問題の背景に(江川紹子)
.(毎日新聞 - 2017年12月27日)
https://mainichi.jp/classic/articles/20171226/org/00m/200/002000d

今回のセクハラ問題から(野村政之)
(2017年12月28日 2:57)
https://note.mu/nomuramss/n/ncf6decc718eb

お詫び(市原幹也)
(2017年12月19日 6:07)
http://ichiharamikiya.wixsite.com/ichihara/news01

 先日から取り上げている演出家・市原幹也のセクハラ告発問題、私の近しい人にも影響が出てきている。
 十年来の付き合いのある友人が、ネットの書き込み、呟きをやめて、沈黙してしまった。もともと私生活でもいろいろとトラブルが生じていた上に、心に病も抱えている方なので、音信不通状態になってしまうと、かなり心配なのである。
 いったいどうしているのか、メールででも問い合わせてみたいとは思うのだが、しばらく前から、私が彼の書き込みに対して何かを呟いても、一切、返信がないのである。嫌われてるのかなとも思うが、彼からマイミクを切ろうとする気配はない。隔靴掻痒な気分でいたところに、彼の知人でもある市原幹也の事件が発覚したのだ。

 彼は、市原幹也の舞台に、俳優として出演したことが何度かある。
 北九州の紫川で2013年から2016年まで行われていた「語り部屋形舟」、これの脚本・演出を担当していたのが市原だ。
 友人が何人か出演していたこともあって、観劇を誘われたこともあったのだが、私の中では既に九州の演劇への関心がすっかり失われていて、結局、足を運ぶことはなかった。好評ではあったようだが、このような事件が発覚した以上、再開はもう不可能だろう。

 彼は、市原の舞台に出演していた当時、既に、「ウワサ」は聞いていたようである。けれども、面倒ごとに関わるのは嫌だと、市原に意見することを控えてしまった。そのことが、次の被害者を生んでしまったと気づいて、今、深く責任を感じてしまっているのだ。
 いじめの現場を目撃していながら見て見ぬふりをして、その結果、被害者が自殺をしてしまった、そのことを悔いるような心境になっているのだろう。もともと心が弱い方であるから、このショックは相当にキツかったと思われる。
 もしも彼に何かがあったら、看過した私も責任を負うことになる。なのに連絡を取れる立場にはなさそうなのが辛い。そして、彼が自身の罪悪感に潰されるようなことになったら、その一番の責任は、やはり市原幹也が負わなければならない。
 果たして市原は、このような影響まで及ぼしてしまっている事実について、思いを致しているだろうか。

 それどころか、事件発覚から十日余りが過ぎて、事態は早くも風化しつつあるような印象である。
 いやホント、Twitterをずっと追いかけてみても、九州の演劇人の間でも、ろくに話題になっちゃいないのである。2ちゃんねるでちょっと取り上げられて、あと何人かがブログで「市原擁護」としか取れないような文章を書いている程度。何だよ、それ。
 ジャーナリストの江川紹子さんが、セクハラ告発が相次ぐ世界の情勢を俯瞰しながら、市原についても触れた文章を綴っているのは非常に貴重だが、それくらいだ。

 市原は、そのうちひょっこり福岡か北九州に帰って来て、「すみませんでした」と頭を下げて、また、どこかの劇場の芸術監督とかに就任してそうな気がする。
 セクハラ野郎でもしっかり反省しているのなら、更生の方法を考えて許すのが人としての道だっていう寛容な「関係者」の方々がさ、既にちゃんと彼の先行きを考えてあげてるんだよ。今はほとぼりを冷ましてる期間だってわけ。
 でもなあ、市原のやって来たことを考えると、もう性依存症だとしか思えなくってさ、本人の反省の弁を一応は信じてやったとしても、やっぱり「我慢しきれなくって」という事態になっちゃうんじゃないかと思うんだよ。再犯の可能性は決して否定はできない。

 むしろ彼には専門クリニックでの「治療」を勧めたいところだ。日本には、性依存症を治療するための専門の医療機関がないとはよく言われる。しかし、実際には、例えば東京・大田区の「大森榎本クリニック」のように、もう12年も、強姦、強制わいせつ、小児性犯罪、盗撮、露出、下着窃盗、痴漢行為などの性依存者のケアを続けている施設もある(詳細は、そこの精神保健福祉士・社会福祉士の斉藤章佳氏の著書『男が痴漢になる理由』を参照されたい)。
 大森榎本クリニックが訴えているのは、性犯罪を撲滅するためには、ともすれば被害者側に対して「油断した女性の方にも落ち度がある」と非難し反省を促したり、あるいは「勇気を出して告発を」と訴えるよりも、「性犯罪は治療によって止めることができる」ことを社会に浸透させていくことの方が、より効果的だということである。
 市原は、自ら治療を受けたいとは言い出さないだろう。関わりのある演劇人が、今、やらなければならないことは、彼を丁寧に説得していくことではないだろうか。
 
 ところが、市原がメンバーの一人に名を連ねている「演劇センターF」から、今後、彼をどう処遇するのかなど、何らかの公式見解が発表されるのではないかと待っていたのだが、どうもそのような気配が感じられないのである。
 メンバーの一人、野村政之は上記に引用した日記で自身の見解を発表したが、これはあくまで「個人」の意見であって、「組織」としての公的発表ではない。
 ここで野村氏は「もう今後、私が市原くんと演劇の仕事をすることはありません」と記しているのだが、あれあれ、じゃあ「演劇センターF」の中での市原の立ち位置はどうなるってことなんだろう、と首を捻らざるを得なかった。除名するとか解雇するとかじゃなくて、ただ付き合いを止めるだけ?

 どうやらこの「演劇センターF」というのは、一般的にイメージされる会社組織のようなものではなく、メンバー個々人がそれぞれ独自に活動する中で、協力し合うこともあるという、ユニットのようなものであるようだ。だから、野村氏以外のメンバーは我関せずを決め込んでいるし、公式見解も出ないのだろう。組織の「代表」もいないから、責任者としての見解も発表されないわけである。
 というのはまだ彼らに対しての好意的な解釈で、ヒネた見方をすれば、市原がいつか復帰することを見込んで、事を荒立てまいとしているだけなのかもしれない。「F」に戻らなかったとしても、どこかで演劇活動を続ける可能性はあるわけだから、今、彼を手酷く攻撃したり、責任を追及したり、組織を除名するなどの対応を取れば、後々、彼が別のところで権力を握るようなことがあったりしたらマズいとか計算してるんじゃないかと。

 セクハラ男が復帰? 冗談じゃない! とお怒りになる方もいらっしゃるかもしれない。冒頭で紹介した「彼」の他にも、市原の行状を知っていた「関係者」は、福岡・北九州でも相当数にのぼると考えられるのだが、結局はみんな、十年以上にわたって、それらを一切止めることもせずに放置してきたのだ。
 冒頭の「彼」は、こうも呟いている。世話になった知人を、強く責めることはやはり憚られたと。そして、自分の心に問うた時、市原と同様なことをやってないと言い切れない自分に気がついたと。
 九州の演劇人たちが、沈黙するか、あるいは市原擁護に回った理由はそこにあるのだろう。
 やはり「同じ穴の狢」を追及することができないでいるのだ。指導と称して、セクハラ、パワハラが当たり前の世界に堕してしまっているのだ。もしかしたら、九州の演劇界だけでなく、全国的に。

 「どこの世界にもあることじゃないか」という理屈は、結局、その世界そのものを蝕み、根底から腐らせてしまう。
 市原個人の問題ではなく、演劇界はもう長年にわたって、セクハラ、パワハラを是認し、強者が弱者からあらゆるものを搾取する構造を醸成してきたのではないだろうか。八百長や不正が当たり前になった角界と同じように。

 「土壌」は既に充分に耕されているのだ。
 いったん引っこ抜いた苗だって、もう一度元に戻すことも可能だろう。
 実際、市原の「謝罪」文、いくら読んでも、「責任を取って演劇を引退します」とは書いていない。日馬富士より往生際が悪い、というか、演劇を続けていく気が満々だと見てよいと思う。

 野村氏の日記についても、「今後、市原くんと演劇の仕事をすることはありません」という言い方は、市原が「演劇を継続すること」を前提にしているとも読める。一番近しい関係にありながら、平田オリザのように、「今後、演劇に関わってほしくない」、あるいは「Fとしてはもはや市原を仲間として扱うわけにはいかない」ってところまで踏み込んでいる発言じゃないのだ。
 やっぱり「仲間」意識が働いていると判断せざるを得ない。

 野村氏は、市原に電話で「死ぬな」と言ったとか書いているが、はっきり言って芝居がかっていてかえって白ける。電話でどのような会話をしたのかを「公的な報告」として記すのなら、本来は今後の対応をどうしていくかについて書くべきで、こんなプライベートな心情吐露を垂れ流してはいけない。まるで、泣きを誘って、市原の方が被害者的な立場に見えるように、話を粉飾しているようにすら見える。
 野村氏もここですっかり忘れてしまっているよ、被害者は女の子たちなんだって! 「死にたい」と思った女の子たちが、今も「沈黙」するしかない被害者たちが、いったいどれだけいるのか、それを認識していたら、たとえ本当にそのような会話をしたのだとしても、申し訳なくて公表なんかできないって。
 野村氏もまた、人間として最低な部類に属するのである。

 市原幹也は、その「謝罪」文を発表した後、すっかりだんまりを決め込んでいる。
 これまたあえて好意的に解釈すれば、本人が「現在、ご本人(被害者)に謝罪の意思をお伝えする準備をしています」「自分で心当たりを確認し、自分の能力のおける限りもれなくお詫びできますよう、連絡先を設けるなどの方法を探してゆくつもりです」と言ってる通り、その作業に専心していて、コメントを書く余裕もないのかもしれない。
 けれど、「もれなく」って、本当にいったい何人毒牙にかけてきたんだよ。下手すりゃ三ケタ行ってないか。
 「連絡先を設ける」って、新しく専用のアドレスでも作って、「ボクに被害を受けた人はここにメールしてね」とでも言うつもりか? 弁護士を通して話が聞けるように、事務所の電話やURLを教えるという手もあるが、どっちにしろ、被害女性がのこのこと現れる可能性は低いと思う。
 やつの何をどう信用しろっていうの? また何か嫌な目に遭わされたらって考えて躊躇するのが自然だと思うけれど。
 そうこうしているうちに、風化はどんどん進んで行く。社会的には、地方のほぼ無名に近い演出家の話題など、情報の氾濫の中では些末事に過ぎない。真剣に対策に取り組むべき関係者の間でも、何もなかったかのように忘れられていくのだろう。

 市原のような小僧っ子の話題など、一度ニュースになったらそれで終わり、という流れになってしまうのも、マスコミ的には自然なのかもしれない。
 しかし、それで演劇界における同様の問題までもが忘却されてしまうことになるのは、絶対に避けなければいけないのではないか。たとえ世間的には騒がれなくとも、このまま放置しておけば、必ず問題は再燃する(放置しなくても再燃するでしょってご意見も、ごもっともではあるが)。

 つまり、問題点は二つある。
 まず、市原本人を、演劇界はどう処遇していくか。
 もう一つは、演劇界のセクハラ、パワハラ体質自体をどう改善していけばいいか。
 ただ、この二つは根本的なところで通底している。片方だけを実行する、というわけにはいかない。この両者を同時に実現することによってのみ、演劇界で性被害に遭う女性を根絶することができる。やらなければならないことなのだ。

 だから今、演劇人の殆どがダンマリを決め込んでいる状況は、一「観客」の立場で見ていても、腹立たしいし、情けなくてたまらない。他人事じゃないよ、今だって、枕営業を強いられている新人女優が、「あなた」のすぐ近くにいるかもしれないのに。冒頭の「彼」が見過ごしてしまった時のように。
 たとえ市原が消えても、第二、第三の市原が現れる。市原はゴジラだ。ただ倒せばいいというものではない。性を売ってナンボ、という認識が支配している演劇界を根本的に変革しない限り、犠牲者は増え続けるのだ。
 市原が 「更生」の美名の名のもとに、演劇界に復帰すれば、「演劇やってりゃセクハラし放題だぜ。みんな泣き寝入りして問題にならないし。仮に告発されたって、刑事罰を受けることはないよ。ほとぼりが冷めればまた復帰できるしな」と考える腐ったやつらが追随する。
 そのためには、未だに演劇界に巣食っている市原と同類の「膿」を出すことが急務なのだが――。
 膿の周りにいるのも膿だったら、絞り出しようがないのである。

 どの世界にも、同様の問題はあるだろう。けれども演劇界は特に腐っている。仮に日本の演劇人が全部で二万人いるとしよう。そのうちの半分が加害者で、半分が被害者になる。そう考えてもらった方がいいくらい、どいつもこいつも腐っているのだ。長年、積み重なってきた澱が溜まりに溜まって、固形化して取れなくなり、もうにっちもさっちいかなくなってしまっている。

 悪いことは言わない、そこの「新人女優」さん。
 俳優になりたい、映画に出たい、舞台に立ちたい、いずれは誰からも愛される女優になりたい、そんな甘い夢は捨てなさい。
 「あなた」が飛び込んでいる、飛び込もうとしている世界は魔窟だ。阿片窟だ。騙され、弄ばれ、夢も希望も奪われて、全てを失ってしまうことになる。
 本当に、あなたを心から信じ、優しく接してくれる仲間を探し、そこに自分の居場所を見つけなさい。そしてそれは、決して「演劇界」にはないものなのだ。

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 読めない人もいると思うので、江川紹子さんのコラムの当該部分を引用します。
 一度腐った世界において、「関係者の努力」で改善の余地があると判断している当たり、まだまだ見方が甘いと思うけど。自浄能力があるところはそもそもここまで腐らないから。


(前略)
 日本ではどうなのだろうか。2007年に東京の音楽大学の器楽専攻の男性教授が、付属女子高生徒に複数回にわたりレッスン室で抱きつくなどのセクハラ行為をしたとして懲戒解雇になったり、2012年には別の音大教授が同じような行為をしたとして訴えられたりした例もあり、問題がまったくないということはないだろう。

 性による差別や性暴力に対して、日本よりずっと厳しく、被害者が声を挙げやすいと思っていたアメリカでさえ、ワインスタイン氏のセクハラが30年間表ざたにならなかった。デュトワ氏の問題も、今なお後難を恐れて実名で語れない人がいる。そのうえ日本では、性暴力の被害者にも、「夜、1人で歩いていた」「服装が派手だった」など、あたかも落ち度があるような物言いが平然と語られる風潮がある。問題があっても、多くが被害者の泣き寝入りで済まされているのではないか。

 そういう風潮を作っているのは、男性ばかりではない。実名で性被害を告発した女性ジャーナリストに対して、女性からも「私なら、会見であんな(胸元が開いた)服は着ない」「私は厳しく育てられたから、飲みに行く場所も人も時間も選ぶ」などの言葉が投げつけられた。そんな中で相手の実名も出して告発するのは、世界的な「#MeToo」の広がりの中でも、よほどの勇気が必要だろう。

 それでも、匿名なら自分の体験を伝えたい人はいるかもしれない。労働組合も含めた音楽団体は、個人が特定されない形で調査を行って、まずは実情の把握に努めてもらいたい。

 このような日本でも、ずっと心に秘めていた被害体験を語る人たちはいる。中には、相手の実名を挙げての告発もあった。たとえば、演出家の市原幹也氏が、複数の女性から名前を挙げられ、「告発の内容には心当たりがあります」と認めて謝罪。横浜市で開催される現代美術の国際展「ヨコハマトリエンナーレ」で、サポーター事務局を担うNPO法人は、市原氏とのコーディネーター契約を打ち切った。

 告発者によれば、彼は劇団青年団の名前を出して、「舞台出演を口利きしてあげる」と持ちかけていた、という。

 同劇団を主宰する演出家の平田オリザさんは、ブログで「はらわたの煮えくりかえる思い」と怒りをあらわにし、こう書いている。

 <被害者の受けた心の傷は長く癒えることはなく、またセクハラは再犯性が強いので、市原氏には二度と演劇界には関わって欲しくないと個人的には思います>(12月21日)

 これには厳しすぎる、という意見も寄せられたようだ。平田さんは、翌日のブログで、そうした意見にも耳を傾けたうえで、スポーツ界がドーピングや八百長に関わった選手が永久追放される例を挙げ、議論を促している。

 <「Me too」という運動の一つの大事な特徴は、これまで、ともすれば「芸術」の美名の元、寛容に、あるいは曖昧に扱われてきたセクハラ行為を許さないという点にあると思います。セクハラだけではなく、人権を抑圧するような行為によって成り立つ芸術は、もはや許されない。特に日本の演劇界には、大きな意識改革が迫られていると感じています>

 音楽界にも同じことが言えるのではないか。

 潰すにはもったいない優れた音楽家だから、女癖は悪いが演奏は素晴らしいから、などという理由で、誰かの人権を損なっている人が守られ、事態が隠蔽(いんぺい)されたり、被害者に我慢を強いたりしているようでは、業界を挙げてセクハラを容認しているに等しい。音楽界の人たち、とりわけ重鎮と呼ばれる方々や組織を運営する立場の人には、そういう「意識改革」が求められていることを、よくよく自覚してほしい。

 同時に、私たち音楽ファンの方にも、誰かの人権を踏みにじっている者による演奏は拒むだけの「意識改革」が必要だと思う。「音楽と素行は別」「あれだけの才能をたかがセクハラで潰すのは惜しい」といった発想が、結局のところ被害者が泣き寝入りしなければならない土壌を作っている、という想像力を育みたい。

 ただ、過ちを認め、心から反省した人も永久追放でいいのか、という点は、私は平田さんほど明快な立場を取れないでいる。一定の制裁を受けた後も、断じてやり直しを認めないほど、厳格で不寛容な社会でいいのだろうか。本人の深い反省を条件に、同じ間違いを繰り返す恐れがないことを周囲が見極めつつ復帰する道を残しておかないと、永久追放を恐れて、加害者側が事実を認めにくくなる、という懸念もある。

 あと悩ましいのは、本人が告発に対して否認している場合だ。

 密室での行為は、なかなか立証が難しい。時間を経ている場合はなおさらだ。それでも、平田さんが言うようにセクハラは再犯性が高いので、互いに通じ合っているわけではない複数の人が似たような手口での被害を申告し、ある程度の状況証拠があれば、一定の判断は可能だろう。

 METは、レヴァイン氏の件を元米連邦検事に依頼して調査をしている、とのこと。デュトワ氏に関して、N響は「マネジメント会社等に問い合わせる」としているが、それだけでなく、楽団内に被害者がいないかどうかを調べ、同氏が音楽監督を務めるロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、桂冠指揮者であるフィラデルフィア管弦楽団などと協力して、専門家に依頼して積極的に事実調査を行ってもらいたい。

 そうした調査は、加害者認定された側が社会的立場を失うことにもなるのだから、同時に慎重さも必要だ。一般論として言えば、被害者の訴えがすべて100%真実とは限らない。年月と共に記憶が変容したり、まれに虚偽が含まれたりする場合もないわけではない。警察が捜査を行い、性暴力と認定したケースの中に、冤罪(えんざい)が潜んでいる場合もある。

 たとえば福岡県内のマンション管理室で2015年、8歳の女児の体を触ったなどとして強制わいせつ罪に問われ、1審で有罪判決を受けた元管理人の男性が福岡高裁の控訴審で無罪となった。判決は、女児の証言について「母親の注意に反して管理室に出入りしたことに後ろめたさを感じ、誇張したとも考えられる。信用性を認めるには合理的な疑いが残る」と判示した。

 また、2004年と2008年に未成年の女性に性的暴行を加えたとして強姦(ごうかん)と強制わいせつで懲役12年の実刑判決を受けた男性が服役中、当該女性が証言は虚偽だったと告白し、病院の診療録からもそれが裏付けられて、大阪地裁が再審無罪としたケースもある。

 それを考えると、ツイッターなどのSNSでいきなり名前を挙げて告発する形が続くのは、本当は望ましいことではない。だからこそ、被害者が不利益を受ける心配をせずに被害を申告でき、それがきちんと調査される体制を、それぞれの業界や組織がちゃんと持っていてほしい。それが機能することは、被害の未然防止の対策にもなる。

 日本のあらゆる音楽団体、とりわけその運営責任者の方には、今回のニュースを、「海外の著名な音楽家が海外でやらかした出来事」ととらえるのではなく、セクハラ問題に自らが向き合う機会として受け止めていただきたい。

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