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2019年12月02日20:19

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「落下の風情」

 千利休の孫,千宗旦の話です。今日読んでいた本の中に紹介されていました。読んでいた本はつまらない内容でがっかりしましたが,この挿話だけはなかなか味のある話だと思いました。

<以下引用>
 ある時,京都の正安寺の庭に,大変みごとな椿が花を咲かせた。そこで,正安寺の和尚は,その椿を一枝,懇意にしている宗旦の所へ持って行くように小僧に命じる。ところが 小僧は,途中の道で 不注意のあまりつまづいて転び,椿の花が枝から離れて落ちてしまった。右手に枝,左手に花を差し出し,宗旦にひれ伏して詫びる小僧に対して宗旦は,「よいよい。大丈夫」と微笑んでそのまま小僧を帰した。
 翌日,和尚のもとへ 宗旦から「お茶を一服差し上げますからお越し下さい」と案内があった。もはや小僧は黙っておられず,昨日の一部始終を和尚に話す。和尚は驚きながら宗旦のもとへ出向いた。
 和尚が茶室に通されると,その床の間には柱懸けに利休作の竹細工の花器があり,そこに椿の枝を挿し,下の畳には椿の花がポトリと落ちたばかりのように何気なく置いてあった。それは,まさに花器の枝から椿の花がポトリと落ちたという落花の風情をかもしだし,自然のままの静寂さと趣きを漂わせていたという。
<以上引用>

 これがいい,あれがよくないという分け隔てでなくて「すべていい」ということを言わんとしているのかな,と思いました。折れてない花は良くて折れた花は悪い,というのは人間の勝手な分別です。どちらも同じ花,花自体に価値の高低はありません。人間が勝手に価値を付加するだけのことです。
 人間は自分の都合で分別します。できる子はいいけどできない子は悪い。カブトムシはかっこいいけどゴキブリは気持ち悪い。クモの巣にかかったチョウはかわいそうで,やっと獲物を捕らえられたクモの努力は認められない。花は愛でるけれども雑草は摘む。
 どちらもいい,すべていいと全肯定するだけの度量は普通の人間にはありません。宗旦の度量だからこそできた振る舞いなのでしょう。これはいい話でした。
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