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2018年07月26日21:30

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死刑には反対,死刑なんて誰も幸せにしない。

 どんな人であっても人を殺す権利はない。また,人を殺していいどんな理由もない。というのがわたしの根本的な立ち場です。「どんな人」には団体や国家ももちろん含まれます。また,「どんな理由」には被害者感情も含まれます。

 今までこういうことがあると何度も書きました。その都度「被害者感情を考えろ」とか「被害者の人権は」といった感情的な攻撃をされます。それにうまく答えられないわたしも情けないのですが,それと「人を殺す権利」とはまったく次元が異なっていると思います。殺したいほど憎いという感情はわかりますが,国家がそれをやっていい理由にはなりません。国家にだってそんな権利はないと思います。
 終身刑に,と言うと「犯罪者を税金で養うのはばかげている」という人がいます。これも論点がずれています。事業で成功した成金は養うけれど,失敗して万引きする奴は養わないということでしょうか。養う価値のある人とない人を国家が選別する権利があるとは思えません。仮にあるとすれば,その線引きはどこに引きますか? そうなったらわたしはどちらでしょう? あなたはどちらでしょう? 犯罪者もいろいろいます。そんな選別を国家がしていいのでしょうか。わたしは,そんな権利は国家にないと思っています。
 また,今回6人の死刑囚を殺したという事実はあくまでも現存します。その責任は誰がとるのでしょうか。判決を下した裁判官ですか? 執行命令に押印した法務大臣ですか? 執行に直接関与した刑務官のみなさんですか? あるいはそのすべての人ですか? 「国家」などという抽象は責任をとれませんし,わたしやこの記事を閲覧している一般の人にはその負債を負う力はありません。でも,人を殺したという責任と痛痒は誰かが負わなければなりません。実際誰かがそれを負担しているのです。その人たちも新しい悲劇を背負ってしまいました。

 死刑なんて結局誰も幸せにしないし,誰にとってもいいことはありません。あらたな「殺人」という罪をつくるだけです。被害者であっても,国家であっても,また,どんな理由があっても人を殺していいことにはならないし,死刑によって受益する人はいないのです。

 以下に,15日の中日新聞に寄稿された宇野重規さんの意見を再掲します。全文は画像で掲載します。

<以下引用>
 ——(前略)—— 多くの処刑者を出してきた欧州では,これを抑制するために,まずは個人間の死刑を否定して,死刑を国家の権限として一本化した。やがて民主化が進むにつれ,個人の権利を守るためにつくられた国家が,個人を殺す権利を持つのはおかしいとする意見も生まれてくる。私人はもちろん,国家もまた死刑に対する正統な権利を持たないという考えの広がりは,民主主義の発展の指標でもあった。
 ——(中略)——
 日本はどうだろうか。歴史を振り返ってみて,早くから私刑を否定して,国家に死刑の権限を集中してきたという意味では,欧州の歴史に近い。今日なお,市民感の正統な裁判によって私刑を行いたいという意見はほとんど見られないだろう。私刑は国家の権限であるという発想が一般的であるといえる。
 その意味で,今あらためて考えるべきなのは,果たして国家は死刑を行う正統な権限を持っているのか,という問いである。筆者私人は,民主主義国家において権力が個人を殺す正統な権限を持つとは考えていない。被害者の権利をより重視すべきだとの声があり,それ自体は正しいと判断するが,そのことは国家の死刑への権利を正当化するとは考えない。報復という私刑的発想はまして評価できない。
 ——(後略)——
<以上引用>


■死刑確定囚13人、全員執行 オウム真理教事件
(朝日新聞デジタル - 07月26日 11:49)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=5216770
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